三崎教会 週報 7/10

2016年  7 月  10 日   週  報 No.28
日本キリスト教団 三崎教会                
三位一体後第7主日   主 日 礼 拝    順序 (午前10時30分)  
                 司会 木村諭      奏楽 伊勢田宏子                                    
前奏                  
招詞      詩編 107:1〜3   (旧) P.947
讃美歌       26(グロリア、グロリア、グロリア)    一同
主 の 祈 り                           
交読詩編                40       
聖      書     ヨハネによる福音書 4:1〜15 (新)P.168
祈  祷
讃美歌         新聖歌325(歌いつつ歩まん)     一同        
信仰告白
説教      「渇かない水なんてないはず」  進宏一伝道師
祈      祷 
聖  餐  式
讃  美  歌          510(主よ、終わりまで)      一同
献金  
頌栄          27(父・子・聖霊の)         一同
祝      祷
後      奏  (礼拝当番) (今週)  
               (次週)               
◎ 教会学校礼拝(午前9時30分)         
      「神様の声を聞く」 出エジプト記 2:11〜4:17  
         4(けさもわたしの)120(どんなときでも)   
          ▲先週の集会    男   女   計                        
            礼   拝      9   28  37
           教会学校      1   3   4   (教師 ・父母9 ) 
   (教会住所)三浦市城山町4−4 
        牧師(代務)生野隆彦   伝道師 進 宏一  
(電話・FAX) 046-881-7923   (e-mail) fgmfg320@ybb.ne.jp

(聖句)  わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。女は言った。「主よ、渇くことがないように…その水をください。」
                        ヨハネによる福音書 4:14、15                                                    
(今日の言葉) その水が一度、私たちに与えられると、試練に会っても助けられ、苦悩の中では心のよりどころとなり、また、満たされない欲求に苦しむ時は導かれる。しかもすぐに渇いて無くなってしまうものでなく、私たちの内から、続けて湧き出て来る。それが主イエスが与えて下さる、決して渇かない水ではないでしょうか。
(報告)○本日、東湘南地区教会音楽祭(横須賀学院チャペル)に参加します。「歌いつつ歩まん」、「シャローム」を歌います。礼拝後、短時間練習します。なお、参加される方は上履と靴を入れる袋が必要になります。
○バザー委員会を、7月12日(火)、午後2時から小羊保育園で行います。
○役員会報告①牧会・教勢②会計③前月議事録④夏の納涼会:7月31日⑤ピンマイク・イヤホン使用の送受信器購入。⑥8/28、霊南坂教会と食事会交流予定。⑦CS生徒の対応方法検討協議。
○教会婦人会修養会を7月18日(海の日)に行います。午前は聖書の学びの時、午後は楽しく歌い、ピアノ、バイオリンの演奏も予定しています。
○恒例の夏の納涼会を7月31日に行います。イースターの時と同じ、ロールパンに、玉子ポテトサラダ、ハム、チーズ、コールスローママレードを各自挟んで食べます。デザートはお汁粉(冷やし)とスイカです。会費:大人200円、子供100円。
○山下依子姉の告別式が、7月7日、午前11時よりエデンの園で行われ、生野牧師が式辞を述べ、進伝道師が司式をいたしました。
○教団を通した、熊本地震被災者への献金を継続しています。
○6月23日は、犠牲者が20万人を超えた、沖縄戦慰霊の日でした。
○お祈りください! ①国内外の格差②子供の成長の力になれること
③キリストの言葉で教会生活をする者が守られること④すぐ行ける、三崎
の教会であること⑤私たちが次世代に教会をつなぐことが出来ること
○礼拝堂では、静かにその日の聖書を読み、心を神に向けましょう。
次週礼拝予告  7月 17日(日) 午前10時30分
説教題 「腰を据えて」  生野隆彦牧師
聖書  使徒言行録 18:1〜16 コリントの信徒への手紙 一 1:1〜5


サマリアの女と生きた水 ヨハネ4:1〜42
 
 今日の箇所に、ユダヤ人はサマリア人とは交際しないとあります。ユダヤの国は北の王国イエスラエルと南の王国ユダに、紀元前920年頃分裂しました。その後、北のイスラエル王国アッシリアによって滅ぼされてしまいます。その時、イスラエル王国を征服したアッシリアは、都のあったサマリアに他の民族を移住させ、征服した土地が、ユダヤ民族によって再び回復されないようにしました。その結果サマリアでは、ユダヤ民族は結婚によって他の民族と同化されて行きました。当然に異国の神が入って来ます。唯一の神の純粋性を求めるユダヤ人にとって、それは最も忌み嫌う事でした。その結果、ユダヤ人はサマリア人を蔑み、サマリア人と交流しなくなりました。
 今、主イエスは目的地に行く為にサマリアを通り、水を貰おうと、井戸の側で休んでいました。砂漠が多い地域では水、井戸の確保が絶対条件で、井戸の水で人間や家畜が生活し、サマリアの人々はその井戸の水で命が支えられていました。
 主イエスは、やって来たサマリアの女性に、水を飲ませてくれるよう頼みます。そのサマリア女性は困惑します。ユダヤ人はサマリア人と交際しないことが分かっているからです。ここで交際しないと訳される元の言葉は、容器を共用しないという意味です。同じ杯で飲むことは、国が違っても、友好や愛情の徴と言うことになります。
 女性は主イエスに、ユダヤ人が交際しないサマリア人に、何故頼むのかと尋ねます。主イエスは答えます。その女性が、無償で与えられる神の恵みがあることを知っていたら、そして私、主イエスが誰かを知っていたら、あなたが私に頼み、頼まれた私は、生きた水をあなたに与えたでしょう。主はそう答えました。それに対し女性は言います。あなたは汲む道具を持っていない。この非常に深い井戸から、どうやって私に生きた水を与えて下さるのですか。私達の先祖、指導者ヤコブよりもあなたは偉くて、何かの方法で、井戸の水を汲むことが出来るのですか。
 ヤコブと言えば、兄のエサウから、策略を遣って、毛皮を被って毛深い兄になりすまして、長男の権利を横取りした話は皆さん御存知の通りです。一筋縄では行かない人間でしたが、神はそのヤコブユダヤの人々の指導者の地位を与えたと言う事になります。 
 頼めば生きた水を与えてくれるような、主イエスが、ヤコブを超える何かの力を持っているのかと考えたのでしょう。ユダヤ人はサマリア人と交際しなくなりましたが、サマリア人の中にはユダヤ教の唯一の神を信じている人がいました。サマリア人は他の民族との結婚によって純粋のユダヤ人ではなくなりましたが、先祖がユダヤ人であることは、変わりありません。サマリア人にとってもヤコブは敬愛すべき父、指導者でした。
 生きた水を、どのようにして与えて下さるのかという、女性の問いに対し、主イエスは答えます。この井戸の水を飲む者はまた渇く。しかし主イエスが与える水を飲む者は決して渇かない。主が与える水は、普通の水ではないことがここで分かります。その水を飲むと、いずれ渇くのではなく、逆に飲んだ人の中で、地下から際限なく湧き出る泉のようになる。そしてその泉から湧き出る水によって、永遠の命が得られると言います。
 女性は主イエスに言います。渇くことがないように、また汲みに来なくても良いようにその水を下さい。女性は渇くことのない、生きた水があることは理解したようです。しかし、ここに汲みに来なくても良いようにと言っていますから、主イエスが言われる生きた水は、その女性にとって、井戸の水と同じようなものと考えたはずです。
 それでは私達にとっては、主イエスの言われる生きた水とは、どんなものなのでしょうか。一つの答えは、このヨハネによる福音書の7章37節に書かれています。読んでみますと、渇いている人は誰でも、私の所に来て飲みなさい。私を信じる者はその人の内から、生きた水が川となって流れ出るようになる。つまり、生きた水とは、私達が洗礼を受けると主イエスに与えられる、霊、聖霊のことだと書かれています。
 水は、このヨハネによる福音書では、霊と共に神を象徴し、人間を表す肉に対立する言葉として、何度か用いられています。その意味では、生きた水が霊を表すというのは、理解出来ます。ですから渇く事のない生きた水とは、信じる者が与えられる神の霊だ、というのが一つの答えになります。
 しかし生きた水が霊だと言われても良く分かりません。より分かりやすく考える為、私達にとって水と何でしょう。まず、命を維持する為に絶対必要なものです。人間は一杯の水によって命が回復し、水だけで何日も生きられます。行方不明になり6日目に無事発見された北海道の小学生は記憶に新しい所です。ですから水は、渇きを癒し命を救う事から、比喩的には、人生の苦悩、満たされない思いを解決する手段と考えられます。
 渇くことのない水とは、永遠に持続し変わらないもの、環境が変わっても不変であるもの、人間にとって拠り所となるもの、良い時も悪い時も従いさえすればよいもの、従う事が出来るものだと思います。旧約聖書詩編に度々出て来る表現ですが、私達の避け所となる盾や砦、岩となります。また困難を乗り切る為に神に与えられる活力でもあります。
 しかもその生きた水は、一時的ではなく、一回与えられると、私達の中から継続的に湧き出ると言われます。私達は水を一滴も飲まなくても平気でいられる時があります。どんな時でしょうか。それは点滴を受けている時です。必要な水分、栄養素、熱量が注入されるからです。
 96歳で介護保険を使っていない、私の叔母は、数年前体調を酷く崩し、自分の生涯は間もなく終わると確信した時があったと言います。しかし運ばれた病院で点滴を受けた所、1分も経たないうちに体の中から熱くなって、これは大丈夫だと思ったと言っておりました。人間による点滴でさえ、これだけの効果があります。ましてや神が、信じる者に生きた水を点滴して下さったら、どうでしょうか。 
 苦悩を治め、際限のない渇き欲求を癒し導き、心を満たしてくれるもの、与えられた物で満足する術を教えてくれるもの、信じる者にとっては、主イエスの教えや言葉を信じ従おうとする事こそが、生きた水の流れを得ることになるのかもしれません。
 尤も信じるキリスト者でも、迷いはあり、綺麗事では済みません。信じていれば本当に何とかなるのか、信じているのに私は渇いている、何故こんなに苦しいのか、そう思ってしまいます。しかし信じると決めた者はそこからまた、忍耐すれば答えて下さると信じ、信仰が再出発するのだと思います。どうにもならない困難の中にあっても、キリスト者には決して渇かない生きた水が神によって点滴され、体の中から湧き出て温かくなる。ですから明日を信じる事が出来るのだと思います。

 信じ洗礼を受けている者には、生きた水が与えられている。体の内から熱く湧き出ている。この事を信じて生きて行く事が出来るようにして下さい。主イエスの御名によって祈ります。