三崎教会 5/7 聖書の救いの言葉

「イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』」             

                  ヨハネによる福音書 5:8 
  
  何十年も、病で寝たきりに近かった人は、そう言われると、いきなり、 
 
 軽くはない床を担いで、歩き出しました。信じない人には作り話でも、信 
 
 じる者には、一人一人の状況に応じて、困難を乗り超える力が神から与 
 
 えられることになります。 



2017年  5 月  7 日   週   報 No.19
日本キリスト教団  三 崎 教 会   
復活後第3主日 主 日 礼 拝  順 序 (午前10時30分)       
                   司会  進宏一   奏楽 伊勢田宏子                                
前奏                  
招詞       詩編 116:1〜4    (旧) P.956
讃美歌          28 (み栄えあれや)       一同
主 の 祈 り                           
交読詩編                 90  
聖      書 テサロニケの信徒への手紙一 5:16〜22(新)P.379
祈  祷
讃美歌        327(すべての民よ、よろこべ)   一同        
信仰告白
説教     「神が望んでおられること」 佐藤千郎牧師   
祈      祷 
讃  美  歌           495(しずけき祈りの)     一同
献金  
頌栄           29(天のみ民も)        一同
祝      祷 (礼拝当番) (今週) 
後      奏         (次週)             
◎ 教会学校礼拝(午前9時30分)         
         「天地創造」 創世記 1:1〜2:3   
         99(せいしょはてんから) 119(やさしいめが)   
          ▲先週の集会    男   女   計                        
            礼   拝   7   27   34
           教会学校     1    1    2 (教師 ・父母7) 
   (教会住所)三浦市城山町4−4 
        牧師(代務)生野隆彦   伝道師 進 宏一  
(電話・FAX) 046-881-7923   (e-mail) fgmfg320@ybb.ne.jp




(聖句) 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝 
 しなさい。」         テサロニケの信徒への手紙一 5:16〜18
                                          
(今日の言葉) 神が私たちに望んでおられることは、喜び、祈り、感謝で 
 すが、これらは、キリスト・イエスを信じる信仰が結ぶ実であり、神が約 
 束されたことの成就の証し、に他なりません。
 
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(報告)
○ 役員会は5月14日に行います。
○ 新役員、日比野裕子姉、新明隆子姉、栃久保宣子姉の就任式を後日 
 行います。
○ 先週、徳山信行兄の長女、芽音さんの幼児洗礼式が行なわれました。
○ 生野多恵子姉のお祝いの茶話会を、後日予定しております。
○ 右側のトイレのドアノブが修理され、以前と違う形に変わっています。 
 御注意ください。

お祈りください! ①6人に1人と言われる子供の貧困に対して、それぞ 
 れが出来ること②地震地域に住む者として備えを怠らないこと③神の言 
 葉の力で子供を成長させること④私たちが次世代に城山の教会をつな 
 ぐことが出来ること
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○日毎の糧(5月6日 

次週礼拝予告  5月 14日(日) 午前10時30分
 説教題 「主がすぐ近くにおられます」 生野隆彦牧師   
 聖  書 詩編 46:1〜7 フィリピの信徒への手紙 4:1〜9



2017年5月7日・三崎教会 復活後第3主日礼拝

「今朝の礼拝説教の流れ」               佐藤千郎

キリスト者とは、基本的には、「十字架に架けられて死に、その死から復活したイエスを、わたしの救い主キリストと信じ、イエスは主であると告白している人」と説明することが出来ますが、その信仰に基づく個々の生きざまは様々です
 かつて、遠藤周作の小説「沈黙」は、主人公ロドリゴが苦悩の果てにキリシタン棄教の意思表示となる「踏み絵」を踏むことを決断し「踏み絵」を踏んだ、その場面を巡って、議論が起こり、一時教会関係者の間で禁書扱いにされたことがありました。踏み絵の板に彫られたイエスが「踏むがいい。お前の足の痛さを私が一番よく知っている。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」と語りかける、そのイエスの言葉を巡っての議論だったと記憶しています。同じキリスト者でも、状況によりその人の信仰的生きざまは違ってきます。
 そのことを押さえたうえで、「絶えず祈りなさい」と言う今日の聖句に即して言えば、「常に神に顔を向け、すべてを神に求め待望し、すべてについて神に感謝する、そのような生活へと招かれ呼び出された人」、それがキリスト者だと言えます。
〇テサロニケの信徒への手紙の差出人であるパウロは、この手紙の数年後、獄中から別の教会に宛てた手紙の中で「主において常に喜びなさい。……感謝を込めて祈りと願いをささげ…」(フィリピ4:4〜7)と書いているように、信仰生活にあっては、祈りと喜びが深く結びついたものであることを示し、更に、祈りと喜びとが一つとなって感謝が生まれる、その消息について語っています。
 またこの手紙では、殉教の死をも覚悟するような厳しい中でも、神の平和によって守られている自分について「わたしは、自分の置かれた環境に満足することを習い覚えたのです。……わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:11〜13)と書き、豊かさの中でも、貧しさの中でも失われることのない喜び、祈り、感謝について、力強く語っています。
〇今朝改めて、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」と呼びかけられていることの幸いをこころに留めます。何よりも、そう呼び掛けてくださる神が、そのことを、私たちのうちに実現してくださるからです。
 信仰とは、私たちに御顔を向けておられるそのお方から、目をそらさないで祈り続けることです。「祈らないことが罪です」(フォーサイス・祈りの精神より)