三崎教会 週報

2015年 4 月  19 日   週  報 No.16
日本キリスト教団 三崎教会                
復活後第二主日  主 日 礼 拝  順序 (午前10時30分)  
               司会 新明隆子  奏楽 伊勢田宏子                                       
前奏                     
招詞        詩編 66:7〜9   (旧) P.898        
讃美歌        28 (み栄えあれや)     一同
主 の 祈 り                           
交読詩編             128           
聖      書  マルコによる福音書14:71〜72 (新)P.94
           ヨハネによる福音書21:15〜19 (新)P.211
祈  祷
讃美歌        575(球根の中には)一同        
信仰告白
説教      「復活を信じて生きて行く」 進宏一伝道師
祈  祷
讃  美  歌         149(わがたまたたえよ)  一同
献金  
頌栄          29(天のみ民も)    一同
祝      祷
        (礼拝当番) (今週) 
             (次週) 
 ◎ 教会学校礼拝(午前9時30分)         
  「サマリアの井戸で」 ヨハネによる福音書 4:3〜29    
     114(ちいさいいのちが)  40(よあけのほしが)
          ▲先週の集会    男   女   計                        
            礼   拝      7   38  45
           教会学校      7  8(教師 ・父母22) 
   (教会住所)三浦市城山町4−4 
        牧師(代務)生野隆彦   伝道師 進 宏一  
  (電話・FAX) 046-881-7923   (e-mail) fgmfg320@ybb.ne.jp

(聖句)するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度なく前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した。
                    マルコによる福音書14:72
(今日の言葉)ペトロはユダヤ人の迫害で命の危険があっても主
エスから、離れませんでした。ところが最後の最後になって
主を見捨ててしまいます。しかし主に赦され、再びペトロは主
の許に戻り、生涯を捧げて行きます。

○ 本日礼拝後、2015年度 三崎教会 教会総会を行います。
   (議題) ①事業報告、事業計画の件
        ②会計決算、会計予算の件
        ③役員選挙の件
       (任期満了改選者 日比野姉、新明姉、栃久保姉です。)
  ⇒教会員兄姉は必ず出席願います。
   出席できない方は委任状を御提出ください。
   昼食は炊込御飯を用意しております。
○ イースター特別献金をありがとうございました。報告は後日させて頂きます。
○教会音楽祭(7月12日、逗子教会)に参加いたします。「この地
に」、「道を照らそう」を歌います。
○細川明兄弟は、4月6日天に召されました。先週礼拝にて、三崎
教会として、記念会を持たせて頂きました。御家族への主の慰めを
お祈りするとともに、三崎教会会員との温かな交わりを最後まで続
けて下さったことを感謝いたします。                    
お祈りください! ①キリストの福音を、救いを求めている三崎
の人々に届けられること ②安全(交通、災害、病い) ③子ども伝
道 ④紛争地域の人々 ⑤長期間出席できない兄弟姉妹のために                                     
○ C・S日曜学校に、主が三崎の生徒を送って下さいますように。
次週礼拝予告 4月26日(日) 午前10時30分
 説教題  「神様が下さる食物」 鈴木伸治牧師
 聖  書  出エジプト記16:9〜16(旧)P.120
        ヨハネによる福音書6:34〜40(新)P.175
  讃美歌 333(主の復活、ハレルヤ)433(あるがままわれを) 



復活を信じて生きて行く ヨハネ 21:15〜19
 今日も弟子達の証言を信じる者として、お話をさせて頂ます。今日の聖書箇所の前の部分で、主イエスは、十字架に絶望していた弟子達の前に姿を現しました。只復活の主イエスに一度会っただけでは、ペトロを始め、弟子達はまだ半信半疑だったようです。その後7人の弟子達は、主に従う前そうであったように、湖で漁をしていました。弟子達は従って来た主イエスを失った失意の中、これからどのように生きて行くか、漁師に戻ることも考えたでしょう。弟子達はまだこの時点では、復活した主に一度会ったとは言え、主の教えを伝えて行く事、伝道に生涯を捧げて行く覚悟、気持は明確ではなかったかも知れません。夜通しの漁は不調に終わります。しかし主イエスが再び現れ、網を打つ場所を指示されると、網を引き上げられない程の魚が掛かっていました。弟子達はそれが主である事を、最早疑うこと無く、共に食事をしました。
 食事が終わると、主イエスはペトロに話しかけます。主は言われます、他の弟子達以上に私を愛しているかと。ペトロは答えます、私があなたを愛している事はあなたが御存知ですと。
 ペトロと言えば、皆さんも御存知の通り、主イエスの第一の弟子でした。家族を捨て、仕事を捨て主に従い、弟子となった多くの者達が離れて行く中、ペトロは最後まで従いました。ところが、十字架の日の前日、主イエスは弟子達が御自分を見捨て逃げ去ってしまう事を予告します。主と一緒に死ぬことになっても逃げ去る事はありませんと言うペトロに対しては、今夜あなたは、鶏が二度鳴く前に、三度私を知らないと言う、とまで具体的に言われました。この時、主イエスと一緒に死ぬ、主の為に命を捨てると言った、ペトロの気持に嘘はなかったと思います。現実にそれまで何度もユダヤ人に迫害され、死ぬ目には遭っているはずです。何時死んでも不思議はない覚悟はあったでしょう。
 しかし主イエスが実際にユダヤ人に逮捕されると、ペトロら弟子達は敢え無く、全員主を見捨てて逃げ出してしまいます。ペトロは、主から遠く離れ、主が捕らえられている、大祭司の屋敷の中庭で火に当たっていました。すると大祭司の女中がペトロに向かって、この人は主イエスの弟子だと言います。ペトロは女中の言う事を打ち消し、何の事か分からない、見当もつかないとまで言って、出口の方に逃げて行きます。ペトロが主イエスを知らないと一回目に言ったこの時、すぐ鶏が鳴きました。一回目の鶏でした。その後、先程の女中がペトロを再び見つけて、主イエスの仲間だとまた言います。ペトロはまた打ち消します。これでペトロは主イエスを二度否認してしまいました。暫くすると今度は別の人が、ペトロが主イエスと一緒にいたと言い始めます。するとペトロは、仲間だと言われたのは三度目なので、それを打ち消そうと必死に、主イエスに対する呪いの言葉さえ口にしながら、そんな人は知らないと言ってしまいます。これでついにペトロは三度、主を否認しました。その時、暗い夜の闇を突き抜けるように鶏が甲高く鳴きました。これが二度目の鶏の鳴き声でした。主イエスに言われた通り、ペトロは三度までも主イエスを知らないと言って、その瞬間、二度目の鶏が鳴いたのでした。まるで映画を見ているような気持になります。
 信じ従って来た主イエスを見捨ててしまった、ペトロのこの挫折は人間の弱さの象徴、典型と言えます。聖書はここだけではなく、人間の誰にでもある弱さを、ドラマのように見事な脚色を付けて浮き彫りにします。全てを捨てて、親兄弟も仕事も捨てて主イエスに従った弟子が、過ちを冒してしまう。それこそが聖書の言っている、神が私達に伝える、弱い人間の姿なのです。
 主イエスと一緒に死ぬつもりでいたのに、逆に主に、鶏が二度鳴く前に三度私を知らないと言うと言われ、果たしてその通りになってしまったペトロは今、闇夜を突き抜ける鶏の声に主の言葉を思い出し、大祭司の屋敷の中庭から外に出て、激しく鳴いたと書かれています。
 そのペトロが今、今日の箇所で、復活した主イエスに湖で話し掛けられています。あなたは私を愛しているか。ペトロは答えます、私があなたを愛している事は、あなたが一番御存知です。挫折を経験したペトロは、自分の弱さも承知し、そして激しく泣いて、今再び主に会っている。そんな自分は主によってよく知られている事も確信しています。
 ペトロは確かに主イエスを置いて逃げ出しましたが、激しく泣いた後今また戻ってきたのです。復活したとは言え、主イエスの弟子であり続ける事は、相変わらず命の危険を伴う事なのです。主に私を愛しているかと何度も聞かれ、主が自分を疑っている、そんな悲しい気持になっていました。しかし、この後ペトロは実際に生涯を捧げて行ったのです。ここに弱さを抱えながらも、従おうとする人間の信仰の本質があると思います。
 そんなペトロに主イエスが言われた事は、私の羊を飼いなさい、お世話をしなさいという事でした。私の羊とは主を信じる者の事です。羊は飼い主がいないと、自分で行動出来なくなり、弱り果ててしまう存在です。その羊を飼い、世話をしなさいと、主はペトロに言われています。私達に置き換えて考えて見ると、主が私達に命じられる事は、同じ信仰を持つ兄弟姉妹を支えなさいという事になります。自分だけでなく隣人をも愛せと言われたように、一人で生きるのではなく、共に支え合いなさいという事だと思います。
 次に主イエスは、ペトロが行きたくない所に連れて行かれると言われ、ペトロが命を献げる生涯を送る事をが予告します。聖書はこれを、ペトロが神の栄光を現すと書いています。一度は主イエスを見捨ててしまったペトロが、主イエスの許に再び戻って来て、今度こそ本当に命を献げて行きました。こんな事は、神でなければ出来ない業、神には何でも出来るという意味で栄光と書かれているだと思います。これも私達に置き換るとすれば、失敗は目に見えていますが、それを乗り越え立ち直り、信仰の歩みを重ね、成長して行く事が、自分では出来なくても、神であればお出来になるというです。
 私達というより、私はペトロのように命を献げて生きて行く事は到底出来ません。しかし、ペトロの気持で生きる事を命じられています。この世を恐れ、この世に合わせざるを得ない事がよくあり、時には自分から進んでこの世に合わせてしまいます。ちょうどペトロが主イエスを捨てたのと同じです。また、信じているのに先行の不安に落ち込み、絶望し掛ける事もあります。そもそも酷く落ち込むというのは、信じていないからからであって、ある意味では信仰を捨てているのと同じです。主イエスが私達の悪い行い、罪の為に、救いの為にあのように苦しんで死なれたのを、私達は聖書で知っています。それなのにその救いの約束を信じないで、絶望するのか、我慢出来ないのか、と主イエスが言われているようです。主イエスは神に祈って下さいます。私達の信仰が無くならないように、そして一時離れても、立ち直ったら兄弟達を力づけてやりなさいと。もし私達がペトロのように、戻って来る事が出来るとしたら、信じ切って生きて行く事が出来るとしたら、やはり私達はペトロの気持ちで生きるしかない、ペトロを救って下さった主イエスに縋るほかない。そのように思います。