三崎教会 週報
2015年 4 月 12 日 週 報 No.15
日本キリスト教団 三崎教会
復活後第一主日 主 日 礼 拝 順序 (午前10時30分)
司会 進宏一 奏楽 廣瀬牧実
前奏
招詞 詩編 66:5〜6 (旧) P.898
讃美歌 25(父・子・聖霊に) 一同
主 の 祈 り
交読詩編 127
聖 書 ヨハネによる福音書20:19〜29(新)P.210
祈 祷
讃美歌 326(地よ、声たかく)一同
信仰告白
説教 「信じる者になりなさい」 佐藤千郎牧師
祈 祷
讃 美 歌 451(くすしき恵み) 一同
献金
頌栄 27(父・子・聖霊の) 一同
祝 祷
(礼拝当番) (今週)
(次週)
◎ 教会学校礼拝(午前9時30分)
「マグダラのマリア」 ヨハネによる福音書 20:1〜18
114(ちいさいいのちが) 40(よあけのほしが)
▲先週の集会 男 女 計
礼 拝 7 65 72
教会学校 7 7 14 (教師・父母14 )
(教会住所)三浦市城山町4−4
牧師(代務)生野隆彦 伝道師 進 宏一
(電話・FAX) 046-881-7923 (e-mail) fgmfg320@ybb.ne.jp
(聖句)イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 ヨハネによる福音書20:29
(今日の言葉)「…信じる者になりなさい」と、弟子トマスを諭された主イエスは、更に、「見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われます。信じること、それは知識によるものではなく、神が与えてくださる聖霊によるものだからです。聖霊を祈り求める人の心に宿るのが、信仰です。
(報告)○役員会報告①牧会・教勢②会計③前月議事録承認④記念誌進捗状況⑤お花見・イースター食事反省⑥教会総会、4月19日、炊込御飯⑦教会音楽祭参加
○ 3月会計報告が裏面にあります。御覧下さい。
○ イースター特別献金をありがとうございました。報告は後日させて頂きます。
○ 2015年度 三崎教会 教会総会のお知らせ
(日時) 4月19日(日) 礼拝後 (議題) ① 事業報告、事業計画の件②会計決算、会計予算の件③役員選挙の件(任期満了改選者 日比野姉、新明姉、栃久保姉)⇒教会員兄姉は必ず出席願います。出席できない方は委任状を御提出ください。
○教会音楽祭(7月12日、逗子教会)に参加いたします。「この地
に」、「道を照らそう」を歌います。
○日毎の糧(4月12日)「イエスは言われた。ああ、物分りの悪く、
心が鈍く、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者た
ち・・・」 ルカ24:25 弟子たちは、婦人たちが天使が主イエスに復
活したことを告げられても、として信じようとしませんでした。
信仰を持っていても、日々の不安に耐えかねている私たちに、大
丈夫だから信じよと、主イエスが言われているようです。
お祈りください! ①キリストの福音を、救いを求めている三崎
の人々に届けられること ②安全(交通、災害、病い) ③子ども伝
道 ④紛争地域の人々 ⑤長期間出席できない兄弟姉妹のために
○ C・S日曜学校に、主が三崎の生徒を送って下さいますように。
次週礼拝予告 4月19日(日) 午前10時30分
説教題 「復活を信じて生きて行く」 進宏一伝道師
聖 書 ヨハネによる福音書21:15〜19(新)P.211
讃美歌 575(球根の中には)149(わがたまたたえよ)
2015年4月12日・三崎教会 復活後第1主日礼拝
「今朝の礼拝説教の流れ」 佐藤千郎
○先週の主日は、主イエスの十字架の死からの甦りを祝うイースター(復活祭)でした。私たちのいのちは、肉体の死と共に朽ち果てるのではなく、死からの復活と永遠の生命(イノチ)へ約束されていることを確認し確信したことです。
使徒信条は結びで次のように告白しています。「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの甦り、永遠(トコシエ)の生命を信ず。」 私たちが三崎教会につながっていると言うことは、からだの甦りを信じ、永遠の生命を信じる者としてつながっていると言うことです。この群から希望が失われることはありません。
○しかし、主イエスが甦られた最初の日曜日、地上のどこにも喜びはありませんでした。もちろん、復活を祝う賛美の歌も生まれていませんでした。「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」とあるように、イエスの弟子たちは恐怖の中にありました。主イエスの十字架の死と共に発生した恐れを引きずっていただけではありません。主イエスのご遺体をお納めした墓が空っぽであることを確認しているにもかかわらず、主イエスの復活が喜びとはなっていなかっただけでなく、弟子たちの中にはそのことによって、どう対処して良いか困惑が広がっていったのです。
復活の主イエスは、このような弟子たちに近づき、彼らのレベルまで身を低くし、彼らの困惑と向き合って下さるのです。復活の主は、高きところより低きに降りたもう「受肉の神」ご自身に他なりません。
○トマスは言います「あの方の手に釘の跡を見て、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」 ここには、自分の価値観、知識、経験といったものに照らして、矛盾のないものだけを受け入れ、そうでないものは排除していく、と言う空気が生まれています。対話は失われ、このことによって強まっていく自己中心的な存在は、創造者なる神との関係も狂わせ、意味の喪失をもたらします。しかし、主イエスはその「真ん中に立ち」たもうのです。
主イエスは「信じる者になりなさい」と語りかけ、「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われます。見ないで信じる人は、(目で見ることは出来ないが、しかし)自分に語りかけてくる相手(いのちの創造主なる神)と共に在ります。ひとりぼっちではありません。むしろ、(神の)愛と救いに信頼を寄せています。この信頼が後ろへ退いた希望を取り戻します。そして、この希望が平安の基、慰めの源となっていくのです。