三崎教会 4/9 聖書の救いの言葉

イースターの祈り) 

 父よ、復活の力が私たちの恐れと不安を取り除いたこと、そして、私たちが

喜びと希望に満たされていることを、人々に伝える者として下さい。


 
エスは、このぶどう酒を受け取ると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。                             ヨハネによる福音書 19:30                         

 人間となった神、主イエスは、むごたらしい十字架で肉体の弱さを経験します。しかし神は主を

復活させます。ですから弱いキリスト者は、絶望しても回復させて下さると信じて、この世を歩む

ことが出来ます。




十字架 ② ヨハネ19:16

 復活、すなわち、死後の世界がある事を人間に見せる為に、まず主イエスは死なねばなりませんでした。しかも、これ以上酷たらしいものはない、十字架でなければなりませんでした。十字架を通して、神は信じる者に何を語られるでしょうか。
一つ目は、何を置いても、やはり罪の贖いなります。易しく言えば、罪の償いです。ですから、自分には罪はないと言う人には、主イエスの十字架自体が意味のないものになります。人々は罪があると思う時、罪を冒してしまった時は、羊、牛、鳩等の動物を用意します。これを犠牲として神に献げる事によって、罪が赦されます。この事を罪が贖われると言います。
 日本のある有名な神社に、御頭(あたま)祭という神事があります。守屋山と言う山の麓で、小さな男の子を縛りつけて、まさに刀で、男の子の頭を刎ね、生贄として神に献げようとします。その時、静まりかえったその場所に、遠くから馬の蹄が聞こえてきます。馬に乗ってやって来た神の遣いが言います。あいや待たれ、その子を殺しはならないと。男の子の代わりに鹿が生贄にされ、男の子は救われるという神事です。江戸時代までは鹿が本当に犠牲にされていたそうですが、動物でさえ残酷だと言う事で、犠牲はなくなったりました。
 しかし、この御頭祭とは違って、十字架では犠牲がありました。それも動物ではなく主イエスが犠牲になりました。何の為かと言えば、主イエスを信じる者の冒した罪が贖われる為、赦される為です。
 福音書の著者は更に言います。ユダヤの人々はエジプトを脱出する少し前に、神の命令によって、小羊を屠って、犠牲にして、その血を家の鴨居に塗り、肉は焼いて食べました。滅ぼす者が来ましたが、鴨居に血が塗られたユダヤの人々の家は、滅ぼさないで通り過ぎました。過ぎ越しました。滅ぼす者が過ぎ越した神の救いを感謝して、毎年春先、今頃に行うお祭りがユダヤの過越祭です。約2千年前、丁度その過越祭の時に、主イエスは十字架に掛けられ、福音書の著者はそれは偶然ではないと言います。ユダヤの人々が、犠牲にされた小羊の血によって、滅ぼす者が過ぎ越して救われたのと同じ様に、今度は主イエスを信じる者が、主が十字架で流された血によって救われると言います。
 十字架が物語るもの、二つ目は、十字架を取り巻いていた人々です。まず、十字架の側に立っていたとされる母マリア達です。女性、ましてや母親が、十字架の傍らに立っていたとは、私にはとても信じられません。しかし他の場面でも、主イエスが逮捕された時、男の弟子達が主イエスを置いて逃げ出した後でも、女性達が側にいたと書かれています。女性は、男性とは違う種類の強さを持ってる事、そして人間には見えない神の世界を、感性で受け入れられる人がいるのだと思います。
 次は男性で、主イエスの遺体を引き取り、墓に葬る場面です。アリマタヤ出身のヨセフは主イエスを信じていましたが、ユダヤ人を恐れ、隠していました。ニコデモも地位のあるユダヤ人でありながら、主イエスを信じ、かつて人目に付かない夜に主を訪れました。しかし今回、二人とも、ユダヤ人の迫害を覚悟して、主イエスの引き取りを願い出、主の埋葬に立ち会いました。その後二人は、ユダヤ人社会から排斥されたでしょうし、良くても冷や飯を食わされたのだと思います。主イエスの十字架は、この二人の男性に、今まで慣れ親しんだ社会を捨てる決意をさせました。
 十字架が物語るもの、三つ目、最後は、神である主イエスでさえ、極端な、これ以上は考えられない苦しみによって、肉体を持つが故の、弱さに直面した事です。28節から、主イエスが息を引き取られた時が描かれています。
 今日読んでいる、ヨハネによる福音書では、成し遂げられたと言われ、息を引き取ったと書かれていますが、ルカによる福音書では、私の霊を御手に委ねます。お受け取り下さいと言われ、息を引き取ったとあります。しかし、マタイやマルコによる福音書では、全く違います。我が神、我が神、何故私をお見捨てになったのですかと、神の子であるにも関わらず、絶望したとしか思えない言葉を叫び、息を引き取られました。 
 このように主イエスの最後の言葉は、四つの福音書によって、あまりにも違い、その理由は分かりません。只、間違いないのは、キリスト者が、人間になった神、と信じている主イエスは、人間の弱さ、肉体がある為の弱さを、自ら経験されました。人間は、辛い事が間近に迫る時、その事が無くなれば良いと思い、時には逃げ出し、あるいは望みを失います。主イエスは神でありながら、人間と同じ様に、一時は絶望してしまったのです。綺麗事では済みませんでした。
 しかし、主イエスが弱さを全てさらけ出した、その先に復活がありました。ですから、信じる者の人生も、同じだと思います。程度の差はあれ、信じる者一人一人に十字架があって、その十字架の時に、弱さを隠す必要はない事になります。弱さの中で,藻掻き苦しむ中で、神に生かされている事が、この世の基準だけで生きる事の限界が、ますます確かに感じられるようになる。そのようにお教えになっていると思います。
 神仏を信じる事と、死後の世界を信じる事は同じだと思います。先週の説教にありました、三途の川を渡れるだろうか、そう言った思いは、人間は差し迫った状況にならないと普通は抱きません。主イエスの復活、死者の生き返り、多くの人は馬鹿馬鹿しいと言います。
 しかし信じる決断をした者にとっては、神に出来ない事はなく、復活を信じる事が出来ます。死んだ後どうなるか等、全く分かりません。しかし、死後の世界、復活を信じて、この世を生きる事が出来ます。主イエスが十字架で代わりに死なれたので、罪は贖われて、自分の罪は償いが済んで、赦されていると信じて、この世を生きる事が出来ます。主イエスでさえ、弱さを隠せなかったので、弱い者としてこの世を生きる事が出来ます。多くの人があり得ないと言う復活をした方は、信じる者がこの世で望みが絶たれたと思っても、信じない人がやはり、あり得ないと思う方法によって、信じる者を救って下さるはずです。
 
 何が起きるのか、先を見通す事の出来ない人間社会の中に私達はいます。十字架の苦難が、私達を救う事が出来る事を分からせて下さい。主の御名によって祈ります。





2017年  4 月  9 日   週   報 No.15
日本キリスト教団  三 崎 教 会   
受難節第6主日 主 日 礼 拝  順 序 (午前10時30分)       
                    司会  栃久保宣子 奏楽 廣瀬牧実                                
前奏                  
招詞         詩編 115:9〜11  (旧) P.955
讃美歌          25(父・子・聖霊に)        一同
主 の 祈 り                           
交読詩編                 85  
聖      書    ヨハネによる福音書 19:28〜42 (新)P.208
祈  祷
讃美歌           529(主よ、わが身を)      一同        
信仰告白
説教       「十字架の周辺」    進宏一伝道師   
祈      祷 
讃  美  歌           575(球根の中には)     一同
献金  
頌栄       26(グロリア、グロリア、グロリア)  一同
祝      祷 (礼拝当番) (今週) 
後      奏         (次週)           
◎ 教会学校礼拝(午前9時30分)         
         「イエス様の十字架」 ヨハネ 18:19〜19:16   
        114(どんな時でも) 120(小さい命が)   
          ▲先週の集会    男   女   計                        
            礼   拝   6   21   27
           教会学校      1   1    2 (教師 ・父母6) 
   (教会住所)三浦市城山町4−4 
        牧師(代務)生野隆彦   伝道師 進 宏一  
(電話・FAX) 046-881-7923   (e-mail) fgmfg320@ybb.ne.jp



(報告)○ 役員会報告 ①牧会・教勢 ②会計 ③前月議事録 ④イー  
 スター4月16日、玉子180個茹でる。愛餐会予定⑤教会総会4月23日  
 ⑥電柱広告検討⑦受難週・復活祭お知らせ配布
○ 2017年度 三崎教会 教会総会  (日時) 4月23日(日) 礼拝後 
 (議題)①事業報告、事業計画の件②会計決算、会計予算の件③役員選 
 挙の件⇒教会員兄姉は必ず出席願います。委任状は受付にあります。
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○ 3月1日〔水〕(灰の水曜日)より40日間は四旬節(レント)と言い、
 キリストが荒野で断食をされた40日間にちなんで定められています。
 この期間は主の受難を覚え、克己、修養、懺悔に励み、復活日(イ-スタ  
 ー)を迎える準備をする期間とされます。
○ 「受 難 週」  棕櫚の主日 4月9日(日)より一週間
   洗足木曜日(13日)、受難日(14日)
○   「 復活日」(イースター)礼拝  4月16日(日)
 (題)  「背後に立ちたもうキリスト」     生野隆彦牧師
  ヨブ記 19:21〜27 ヨハネ.による福音書 20:1〜18 
  讃美歌 328(ハレルヤ、ハレルヤ) 327(すべての民よ、よろこべ) 
 (聖句) こう言いながら、後ろを振り向くと、イエスが立っておられる 
 のが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。ヨハネ 20:14                                
 (イースターの祈り) 父よ、復活の力が私たちの恐れと不安を取り除 
 いたこと、そして、私たちが喜びと希望に満たされていることを、人々に 
 伝える者として下さい。
◎ 洗礼のすすめ
 「あなたたちが、心変わりして主を離れないために」 申命記11:16
  イースターに、洗礼を受ける方は、お申出下さい。
※ イースター特別献金のお願い!  イースターに当り、特別献金をお願いいたします。献金袋は受付にあります。
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