三崎教会 3/19 聖書の救いの言葉

(聖句) 「あなたたちの中で罪を犯したことがない者が、まず、この女に 
 
石を投げなさい。・・だれもあなたを罪に定めなかったのか。・・私もあな 

 たを罪に定めない。行きなさい。・・私はあるということを信じないならば、 

 あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」 ヨハネ 8: 7、24                 
(今日の言葉)

石打の死刑のはずだった女性は、主イエスに赦されます。そして行 

 きなさいと言われました。誰しも罪は避けられません。しかし、信じる者 

 には主イエスの赦しがあります。罪の裁きである死を気にすることなく、 

 行って、新たな歩みを再び始めることが出来るのです。


今日の箇所では、一人の女性が、姦通の現場で捕らえられたと言って、主イエスの前に連れて来られました。人々はこの女性を、モーセの律法では石打の死刑だが、あなたはどう考えるのかと主イエスに尋ねます。旧約聖書の律法と呼ばれる部分、レビ20申命22、を読んでみますと、隣人の妻と姦淫する者は、姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる、と書かれています。皆さん良く御存知の十戒の7番目には、出エ20、姦淫してはならないとあります。何故死刑とされる程、重大な罪なのか、分からない所もあります。しかし、信じる者は、人間を造った神が厳しい罰を与えるその理由、御心を考える必要があります。
 女性を石打にすべきか尋ねられた主イエスは、あなた達の内で、罪を冒した事がない者から、律法に従って、女性を石で打てと人々に答えます。すると、年長者から、一人また一人と去って行き、その女性と主イエスだけが残りました。主は女性に言われます。誰もあなたを罪に定めなかったのか。私もあなたを罪に定めない。行きなさい。女性は解放され、石打の刑を、主イエスによって猶予されました。
 これは、ユダヤの人々の話です。しかし私達も、女性の石打のその場にいたら、同じようにその場を去るしかありません。犯罪を犯した事はなくても、罪を冒した事がない人等、この世にいません。罪と言うのは、犯罪より遙かに広い意味の言葉です。自己中心や他人への配慮をしない事も罪にってしまいます。
 主イエスは自分を愛するように、他人のことを考えなさいと教えます。信じる者はこれを実践しようとしますが、簡単ではなく、出来ていないと言った方が良いです。それでもキリスト者か、信じている意味があるのかと言われます。しかしそれでも信仰を捨てないのは、色々問題はあったとしても、信じて委ねれば救われると思っているからです。
 罪を冒した事がない人等、この世にいないのですから、私達は、罪を冒した女性を石で打つ側ではなく、私達自身が石で打たれるか、赦されるのか、どちらになるのかと言う立場にいます。しかし信じていれば、赦されると主イエスは言われるのです。勿論、信じているから何をやっても良い、開き直って良いと言うのではありません。しかし信じる者には、石で打たれるまでに、赦しと言う、猶予があるのは間違いありません。
 そして、主イエス自身は裁かない、と言われます。キリスト者は神の分身と信じていますが、抵抗することなく、十字架に掛かられました。裁くのは私ではなく、私を遣わした神であると主イエスは言われるのです。人間は神によって、先々には、死んでから裁かれる。しかしこの世では、主イエスに裁かれる事はない。ここでも私達には猶予がある事になります。
 新訳聖書には、ユダヤ教の石打の刑のよな罰はありません。しかし、肉体の死後、霊の体になって、神によって、生き続けたり、罪の為に裁かれる、もう一回死ぬ事が書かれています。徒に死後の裁きを強調し、恐怖感を煽るのは、この世を生きる私達には何の意味もありません。むしろ、信じるんであれば、罪を冒さないのは所詮、無理ですから、裁かれない為には、赦されるしかありません。そうであれば、何をすれば赦されるのかと言う問題になります。
 その問いに主イエスが答えます。私はある、と言う事を信じないならば、あなた達は自分の罪の内に死ぬ事になる。つまり、私、主イエスはあると言う事を信じれば、赦されて罪によって死ぬ事はないと言われます。
 私はあると言うのは、正しい日本語ではありません。もし子供が、僕はある、あたしはあると言ったら、皆さんは、私はあるじゃなくて、私はいるでしょと、間違いを教えて上げます。あるというのは物の存在を示すので、生物であれば、いると言います。しかしここで主イエスが言われる、私はあるという表現の中に、限られた時間しか生ない人間と違い、神が時間を超えて存在し続ける意味合いが感じられます。それを裏付けるように、私はある、すなわち主イエスはある、と言う事が分かるのは、主が十字架に掛けられた時だと言われます。主イエスは、死んでも復活し、生死を超えた、時間を超えた存在であるのが分かると言う事です。
 私はあると言う表現は、実はここだけではなく、もう一箇所あります。それは出エジプト記、3章14節で、神がモーセに、御自身の名前を語った時、私はある、私はあるという者だ、という場面があります。私はある、というのが神の名前だというのです。一方で、主イエスは、私はあると言う事を信じなければ、罪の内に死ぬ事になると言われました。この世が全て、人間の基準が全てと考える人にとっては、全くどうでも良い事です。しかしもし信じるなら、私、主イエスはあると言う事を信じる事と、私はあるという名前の神、その存在を信じる事は同じ事になります。
 主イエスは救い主と言われますが、無条件で救われる訳ではないようです。救われる為には、死んでからでは間に合わなくて、今生きている内にしなければいけない事があると言われます。今生きている時に、ある、あり続ける、存在する神と向き合う。主イエスはあると言う事を信じる事が求められます。その代わり、信じれば、罪の内に死ぬ事はない、赦されると言われます。
 信じる者は誰でも、ユダヤの人々に捕まり、石打の死刑にされそうになった女性と同じです。罪の現行犯で捕まった者は、罪によって死ぬ事になると主イエスは言われます。しかし主は言われます。私は信じる者、あなたを罪に定めない、行きなさい。女性と同じ様に、裁きを猶予して下さいました。石打から解放されました。ですから、信じるのであれ主イエスに、赦しを請い続けて生きる他ありません。
 罪を冒してしまう、またやった、やらかした、しでかしたと言われる事があります。やらかしたのは、個人の生活かもしれません。あるいは仕事かも知れません。やらかしてしまった時、少しであっても自分に落ち度があって、相手を傷付けたと思える時は辛いものです。しかし、まず主イエスが赦して下さる。相手に対する関係も調整して下さるはずです。必ずリセットして下さる。そして再びスタートを切らせて下さる。罪の赦しは、次の世、死んでからでは決してなくて、信じる者にとっては、この世を生きて行く上での守りになる。そのように思います。
 
 信じる者は罪が赦され、罪によって死ぬ事がないと分かった上で、この世を生きて行けるようにして下さい。主イエスキリストの御名によって祈ります。




2017年  3 月  19 日   週   報 No.12
日本キリスト教団  三 崎 教 会   
受難節第3主日 主 日 礼 拝  順 序 (午前10時30分)       
                      司会  栃久保宣子 奏楽 大川昌美                                
前奏                  
招詞       詩編 114:5〜8   (旧) P.955
讃美歌           25(父・子・聖霊に)       一同
主 の 祈 り                           
交読詩編                 82  
聖      書 ヨハネによる福音書 8:4〜11、24〜30 (新)P.180
祈  祷
讃美歌         300(十字架のもとに)      一同        
信仰告白
説教     「罪があると思っているか」 進宏一伝道師  
祈      祷 
讃  美  歌         412.(昔 主イエスの)    一同
献金  
頌栄     26(グロリア、グロリア、グロリア)     一同
祝      祷 (礼拝当番) (今週)                (次週)           
◎ 教会学校礼拝(午前9時30分)         
         「ろばの子にのるイエス様.」 ヨハネ 12:12〜19   
        133(どんどこどんどこ) 129(はるがきた.)   
          ▲先週の集会    男   女   計                        
            礼   拝    6   37   43
           教会学校      1   3   4 (教師 ・父母12) 
   (教会住所)三浦市城山町4−4 
        牧師(代務)生野隆彦   伝道師 進 宏一  
(電話・FAX) 046-881-7923   (e-mail) fgmfg320@ybb.ne.jp



(報告) ○ 役員会報告 ①牧会・教勢 ②会計 ③前月議事録 ④イー  
 スター4月16日、玉子多めに茹でる。愛餐会予定⑤教会総会4月23日  
 ⑥トイレ手摺工事 2万円
○ 3月11日、東日本大震災から6年でした。家族が召された方、 
 自宅に戻れなくなった方を覚えます。改めて今、何をすべきなの 
 か、主イエスの言葉に耳を傾けます。
○ 先週のお花見には、大人40人、子供6人.が参加しました。出し物の 
 口上と子供の表情を楽しむことが出来ました。前日と早朝の準備、片付 
 のお手伝を感謝いたします。
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○ 3月1日〔水〕(灰の水曜日)より40日間は四旬節(レント)と言い、
 キリストが荒野で断食をされた40日間にちなんで定められています。
 この期間は主の受難を覚え、克己、修養、懺悔に励み、復活日(イ-スタ  
 ー)を迎える準備をする期間とされます。
○ 「受 難 週」  棕櫚の主日 4月9日(日)より一週間
   洗足木曜日(13日)、受難日(14日)
○ 「 復活日」(イースター)は 4月16日(日)です。
◎ 洗礼のすすめ
 「あなたたちが、心変わりして主を離れないために」 申命記11:16
  イースターに、洗礼を受ける方は、お申出下さい。
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次週礼拝予告  3月 26日(日) 午前10時30分
 説教題 「人生の指針を与えられる」 鈴木伸治牧師   
 聖  書  出エジプト記.24:3〜8 マタイによる福音書 17:1〜8