三崎教会 2/26 聖書の救いの言葉

○私の言葉を聞いて行う者は岩の上に家を建てた人に似ている。

雨が降り、川があふれ、風が吹いてもその家は倒れなかった。

 私の言葉を聞くだけで行わない人は砂の上に家を建てた人に似ている。

雨が降り、川があふれ、風が吹くと、家は倒れ方がひどかった。



(聖句) 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている霊について言われたのである。
                         ヨハネによる福音書 7:37〜39

(今日の言葉)
 主イエスが言われる渇かない水とは、信じる者が受ける聖霊だと言われます。心と体の渇き、精神的、物質的な渇きをいやし、一度与えられれば、自分の中から泉のように湧き出るので、渇くことのない水です。普通ではありえないので、信じない人に偽善と言われそうです。しかし実は、信じる者にとっては、渇かない水が偽善ではない気がする、偽善でないことが何となく分かるのです。主イエスを信じる者は、渇かない水、聖霊が与えられていることもまた信じて、この世を生きなさいと言われています。  



生きた水の流れ ヨハネ7:32

 今日の聖書箇所で、信じないユダヤの人々は、主イエスが何を言っているのか全く分かりません。しかしもし信じると、以下の通りになります。「今暫く、私はあなた達と共にいる。」これは神である主イエスが人間になった事です。「それから、自分を遣わした方の許へ帰る。」主は十字架で、体は死なれても、霊の命は神の許に帰りました。「あなたたちは私を捜しても見付ける事が出来ない。」人間が認識する事も、見る事が出来ない神の世界に主イエスはいますので、捜しても見つかりません。「私がいる所にあなた達は来る事は出来ない。」信じないユダヤの人々は、主がいる神の許に行く事が出来ないという事になります。
 私を見付ける事が出来ないと言われた人々が、主イエスは、ギリシャに離散したユダヤ人の許にでも行くのかと言っています。ユダヤの国は滅ぼされ、人々は国を失い各地に離散、散らばり、ギリシャに行ったユダヤの人々もいました。余談ですが、国が滅んだユダヤの人々の末裔、子孫が、シルクロードを通って、中国や朝鮮半島、そして日本にやって来たと真面目に主張する方々がいます。やって来た位ならまだ良いのですが、日本最初の統一王朝である、奈良の大和朝廷ユダヤの末裔だったと言います。もし本当なら、今の天皇家も、そして私達一般人の一部も、祖先がユダヤ人と言う事になります。
 聖書に戻りますと、反発する人々がいる中、主イエスが神の言葉を人間に伝えていると信じる人もいました。その人々の、信じる信じないの基準は聖書でした。ユダヤの人々にとって聖書、私達のこの旧約聖書は、その中に命があり、救いがありました。どのように生きれば、命が神に守られるか、救われるかです。ですから聖書を隈無く読み、一語一語が何を意味するのか調べました。
 この事は、今、キリストを信じる者でも同じです。信じる決断をした人にとっては、書かれている言葉が真実だと考える事から出発します。真実であれば、次は何を意味するかを探ります。まず、聖書の言っている事が、明らかで直ぐ分かる場合があります。反対に、何を言っているのか、どういう理由で言うのか、全く見当が付かず、主イエスの言葉だから仕方ない、鵜呑みにして信じる他ないと思う場合もあります。
 もう一つ、その中間ですが、信仰生活を続けていると、初めはあまり理解出来なかった言葉が、もしかしたらこの事を言っているのではないか、と気付く時があります。初めは断言出来なくても、時間が経つにつれ、その思いはだんだん確信に変わって行きます。聖書の譬え話に、人が見向きもしない畑に宝が埋まっているのに気付き、全財産を投じてその畑を買った人の譬えがありますが、正にそんな感じです。
 信じる者にとっては、聖書の言葉が何を意味しているのかが大切です。永遠の命という、先の話だけではなく、今この世を生き抜く為に、どうしたらよいのか、ということです。そして今日の最も中心的な言葉、生きた水の流れとは、信じる者の生活にとって何なのか、と言う事です。
 主イエスは言われました。「渇いている人は誰でも私の所に来て飲みなさい。私を信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」以前の別の箇所、4:14では、井戸の水を飲んでもすぐ渇くが、主イエスに与えられた水を飲む者は、渇かないと言われました。
 渇かない水とは一体何なのか。渇かない水など普通はありません。只、信じる者は、ここから主イエスが何を言われているのか考えて行きます。まず、渇いているとは、精神的、経済的に満たされない、心と体が満たされない事です。主イエスの水を飲むと、それが生きた水となる。何故生きた水かというと、一度飲むと、その人の中から泉のように湧いて出て来る。自分で水を作れる訳ですから、渇かないと言います。本当でしょうか。
 渇かない水が、例えばどんな物か考えてみます。主イエスを信じると、信じない人が沢山必要とする何かの物を、少しだけで満足する事が出来る。この世的に、値段の高い物、誰もが欲しがる物をあまり欲しくなくなる。少ししかない、値段の高い物に代えて、何処にでもある物、誰も見向きもしない物で代用出来る。そんな事が、渇かない水として考える事が出来ます。
 しかし、主イエスに一度生きた水を与えられると、欲しくてたまらない苦しみから解放される。誰でも欲しいと思う物が欲しくなくなる等と言えば、信じない人に、そんなものあるはずない、偽善だと言われても仕方ないのでしょうか。しかし主イエスは、信じる者に偽善者になれ、と言われるはずがありません。主イエスが不可能を押し付けたりしない事もキリスト者は信じて行きます。
 今日の箇所で、その、渇かない水とは、信じる者が与えられる霊、聖霊の事だと言っています。聖霊は、父子聖霊と言いまして、父なる神、神の子としての主イエス、そして神が取られる三つ目の形が聖霊です。聖霊については、信じる者でさえ、聖霊という存在も、聖霊が与えられると言う事も、あまり理解出来ません。只、聖霊が与えられると、自分の内から次々に泉のように湧き出るから渇かないと、今日の聖書箇所で言われるのです。
 信じる者でも、この世の欲求、あれが欲しい、これをしたい、が無くなるはずはありません。この世では目を見張る様々な美しいものがあります。人によって思い浮かべる物は異なります。そんな美しい物に一時的に心は奪われたとしても、主イエスがのめり込まないで済むようにして下さる。そうかと言って、必要は必ず満たされ、御心に適う欲求は満たして下さる。ですから、結果としては渇かない。
 信じない人は偽善だと言うと思います。しかし、信じる者にとっては、実はそうでもない、偽善とは言えない事が何となく分かるのです。聖霊が与えられると、泉のように湧き出る渇かない水となる。必要は満たされ、それなりの満足もあり、困難を乗り切らせて下さる。キリスト者もこの世を生きねばなりません。精神的な、心の欲求と、経済的な、体の欲求が満たされなければ、大変な問題です。もし食べて行けないならそれは深刻で、食べ物があっても、どう生きて良いか分からなくなってしまったら、これもまた深刻です。しかし今、主イエスがその両方共、心の欲求も体の欲求も、賄って下さる。信じる者が干上がってしまう事がないようにして下さる。この渇かない生きた水、聖霊が与えられているのを信じて生きて行けと言われています。

この世の物に目を惑わされることなく、聖霊が与えられていることを実感して、この世を生きる事が出来る様にして下さい。主イエスの御名によって祈ります。




2017年  2 月  26 日   週   報 No.9
日本キリスト教団  三 崎 教 会   
受難節前第一主日 主 日 礼 拝  順 序 (午前10時30分)       
                      司会 新明隆子  奏楽 伊勢田宏子                                
前奏                  
招詞       詩編 113:4〜6    (旧) P.954
讃美歌         27(父・子・聖霊の      一同
主 の 祈 り                           
交読詩編              79   
聖      書    ヨハネによる福音書 7:32〜39 (新)P.179
祈  祷
讃美歌         513(主は命を)        一同        
信仰告白
説教        「渇かない水を頂く」     進宏一伝道師 
祈      祷 
讃  美  歌         385(花彩る春を)       一同
献金  
頌栄         28 (み栄えあれや)     一同
祝      祷 (礼拝当番) (今週) 
後      奏         (次週)         
◎ 教会学校礼拝(午前9時30分)         
         「ヒゼキヤ」 列王記下 18、19:   
        123(かなしいときにも) 136(ロケットにのって)   
          ▲先週の集会    男   女   計                        
            礼   拝   6   24   30
           教会学校     1   2   3 (教師 ・父母7 ) 
   (教会住所)三浦市城山町4−4 
        牧師(代務)生野隆彦   伝道師 進 宏一  
(電話・FAX) 046-881-7923   (e-mail) fgmfg320@ybb.ne.jp




(報告) 
○先週の席上献金、27,000円はギデオン協会に捧げられました。
○ 教会の桜は間もなく満開を迎えます。お花見を3月12日に行います。礼拝後、オープンサンド、コーヒー、デザートを御用意します。帰り掛けに召し上がって下さい。

○ お祈りください! ①国内外の格差 ②地震地域に住む者として備 
 えが出来る事 ③神の言葉の力で子供を成長させ、子供が成長できる 
 場所を目指すこと④教会に関わる者を守って下さること⑤私たちが次世 
 代に、この城山の地の教会をつなぐことが出来ること

○ 礼拝堂では、静かにその日の聖書を読み、心を神に向けましょう。

次週礼拝予告  3月 5日(日) 午前10時30分
 説教題 「大胆に恵の座に近づく」 佐藤千郎牧師  
 聖  書  ヘブライ人への手紙4:14〜16 
 讃美歌  丘の上の主の十字架(303) やすかれわがこころよ(532)