三崎教会 週報 1/15

2017年  1 月  15 日   週  報 No.3
日本キリスト教団  三 崎 教 会   
顕現後第2主日 主 日 礼 拝  順 序 (午前10時30分)       
                      司会 新明隆子  奏楽 大川昌美                                
前奏                  
招詞       詩編 112:3〜5    (旧) P.953
讃美歌          28 (み栄えあれや)        一同
主 の 祈 り                           
交読詩編                67 
聖      書 ヨハネによる福音書7:10〜18、25〜31 (新)P.178祈  祷
讃美歌        522(キリストにはかえられません)  一同        
信仰告白
説教       「神から出たかどうか」 進宏一伝道師
祈      祷 
讃  美  歌          390(主は教会の基となり)     一同
献金  
頌栄           29(天のみ民も)         一同
祝      祷 (礼拝当番) (今週) 
後      奏         (次週)          
◎ 教会学校礼拝(午前9時30分)         
      「取税人の祈り」 ルカ 18:9〜14   
        よあけをつげる(81) あかるいひかりを(86)   
          ▲先週の集会    男   女   計                        
            礼   拝   6   26  32
           教会学校     1   1  2 (教師 ・父母6 ) 
   (教会住所)三浦市城山町4−4 
        牧師(代務)生野隆彦   伝道師 進 宏一  
(電話・FAX) 046-881-7923   (e-mail) fgmfg320@ybb.ne.jp




(聖句)                                
わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方 
  の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神 
  から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。
                          ヨハネによる福音書7:16

(今日の言葉) 
    信じる者には、主イエスの教え、言葉が、人間の作り話ではなく、 
  神から出たものであることが分かる、と書かれています。キリスト者も、 
  この世で目を見張る物に心奪われます。しかし、それが人間から出 
  た物で、神から出た物ではないことを分からせて下さいます。そして 
  信じる者の心を、神のもとに戻し、本当に求めるべきものを分からせ 
  て下さると言われます。

(報告)
○ 役員会報告 ①牧会・教勢 ②会計 ③前月議事録 ④クリスマス燭 
 火礼拝、愛餐会反省 ⑤燭火礼拝楽譜再編集 ⑥教会堂電灯取替見積 
 依頼 ⑦クリスマス外部献金宛先
○ クリスマス献金は96口、719,100円でした。感謝して受領いたしました。 
 詳細は後日、報告させて頂きます。
○ マケドニア会は、1月16〜17日、熱海金城館で開催されます。 
 生野牧師は出席予定です。
○ お祈りください! ①国内外の貧困②シリアの人々の安全③神の 
 言葉の力で子供を成長させること、子供が成長できる場所となること④ 
 教会に関わる者を守って下さること⑤私たちが次世代に、この城山の地 
 の教会をつなぐことが出来ること
○ 礼拝堂では、静かにその日の聖書を読み、心を神に向けましょう。
                 
次週礼拝予告  1月 22日(日) 午前10時30分
 説教題 「導きの光を与えられる」 鈴木伸治牧師  
 聖  書 イザヤ書 9:1〜6 マタイによる福音書4:12〜17
 讃美歌 281(大いなる神は)509(光の子となるために)


神から出たかどうか ヨハネ7:
 
 今日の箇所は、主イエスがなされた事、言われた事が本当に神から出たのかどうか、そうでなければ、イエス・キリストと言う人も、その教えも、人間による全くの作り話なのか、といお話です。そして更に、もし主イエスを信じると、その主の言葉が、本当に神から出た物かどうか、信じる者には、分かると書かれています。
 信じているキリスト者とは言え、一人一人は弱さを抱えた人間です。ちょっと試練があると、教えから直ぐに離れ、人間のやり方で、困難を乗り越えようとします。そんな弱さを負った者が、主イエスの教えが神から出たかどうか、本当に分かるのでしょうか。日々の生活、楽しい事、苦しい事の中で、主イエスの教えが、これは人間の言っている作り話ではない、本物だと、信じる者には感じられると言うのです。ですから、この世で目を見張る、人間から出た物に心奪われたとしても、信じる者の心は、神から出た物に戻る事が出来ると書かれています。
 今日の箇所の始めに、仮庵の祭りと書かれています。庵は住まいですから、仮庵は日本で言えば、掘っ建て小屋です。旧約聖書レビ記23章に書かれていますが、ユダヤの人々は仮庵の祭りの7日の間、小屋に住まなければなりません。何故かと言えば、先祖の苦難の40年を忘れる事のない為です。
 苦難の40年とは、ユダヤの人々が、奴隷として使われていたエジプトから、神に導かれ脱出した後の出来事です。人々は神に逆らった為、約束の地にすぐに行けず、途中、砂漠の様な荒れ野で、放浪、移動しながら生活します。その間はテント生活で、今日モンゴルの、放牧生活の住居、ゲルに近い形を想像します。テントを住居にある場所に暫く留まり、またテントを畳んで、移動する。その繰り返しでした。神の罰としての放浪生活は、短ければ良かったのですが、結局、40年も続いてしまいます。
 仮庵の祭りは、その時の先祖の、苦難の放浪の40年を思いながら、それでも神が、民族を存続させて下さった事を感謝するお祭りです。三崎の海南神社等のお祭りは、神を崇め、神を信じる地域の人々との絆を深めるものです。しかし熱烈な信仰のユダヤの人々にとって、神から受けた戒め、苦難の放浪40年を、忘れない事が第一で、祭りの間、仮庵に住みます。
 その熱烈なユダヤの人々は、主イエスを殺そうとしました。それは、主イエス安息日を破ったり、神を父と呼んで、神を冒涜したと考えたからです。しかし、人々が主イエスに反発した本当の理由は、人々の行いが悪い、神の教えから離れていると、主に指摘されたからだと書かれています。やっている事が悪いと言われれば、誰でも言った人を憎み、場合によっては、死に追いやります。
 そんなユダヤの人々に、主イエスは何度も命を狙われ、石で打たれそうになります。しかしそれにも関わらず、主イエスユダヤ教の神殿で、公然と教えていたり、捕らえられそうになっても、何度も逃れています。そんな時、必ず主イエスは、私の時はまだ来ていない、と言われています。
 主イエスが言われる私の時とは、勿論、十字架の時ですが、直ぐにはやって来ませんでした。聖書には、キリスト者はそれを信じていますが、十字架の時は、神の計画の通りだったと書かれています。つまり、人々が主イエスに反発し、その反発が頂点に達した時、人々が、主が神から出た者とは全く思わず、人間の心と、神の心が全く違う事が明らかになった時、初めて、主の十字架の時がやって来ました。そして主イエスが神から出た事が、あたかも劇を見ているように、明らかになるように主は復活しました。神が意図的に、わざとそのように為された、初めから計画通りだったと、聖書は書いています。
 反発したユダヤ人が多かった反面、主イエスが神から出た事を、信じた人もいました。しかし、信じた少数派は多数派が恐ろしく、人前で話す事も出来なくなったと書かれています。これは何時の時代も、今も同じで、主イエスを信じる者は、この世に生きる時、忍耐と工夫が必要です。
 また、信じる者には、周り、外との戦いだけではなく、より深刻な、内面の戦いもあります。主イエスの教えのように、他人の事を考えながら、自分も生きると言うのが簡単でない事が分かっているからです。
 厳しく、且つ格差のある世の中で、どのようにすれば生き残れるか、誰しも考えます。ある人は、他人の事なんか考えていたら、自分が生き残れないと言って、自分の能力を高め、自分が繋がっている集団グループを大切にします。
 別の人は、辛かった日々に、周囲の人を責めてばかりいましたが、何かの折りにふと、今まで自分がどれ程周囲の人々に支えれれ、赦して貰って来たかが分かった、と言いました。だから神を信じるよりも、人間を信じて、人間の能力や努力、絆、勇気や優しさの中で、困難を解決出来ると言います。
 神を信じるよりも人の繋がりを大事にする人、飽くまで人間を信じて、生きて行こうとする人。それらが出来れば素晴らしいです。しかしそうは行かない場合もあります。自分についても他人についても、どうしても人間の限界を感じてしまう時、人間ではどうにもならない、人間はどうしようもない、と思う時が誰にでもあると思います。そんな時初めて、主イエスの言葉が、人間とは違う事、神から出たと考えるしかない事が、分かってくる。それが、信じる者は、主イエスの教えが神から出た事が分かる、と言う事ではないでしょうか。
 キリスト者も人間で、この世に溢れる魅力的な物に心奪われます。それを得る為には何をすれば良いのか、懸命に考え、手に入れられないと悲しみます。しかし、キリスト者は、2つの物、神から出た物と人間から出た物を、たとえ見抜けなくても、神が見分けさせて下さると言われます。キリスト者が、人間から出た物に魅了され、それに付いて行ってしまっても、深入りする事なく、引き戻して下さる。
 私達の生活は毎日、幾つもの分かれ道があって、どれを選ぶかの繰り返しです。信じる者には、御心に適う方の道が自然に示される。そしてその道を行けば、必ず神の守りがある。ですから、自分の弱さで道を誤る不安を気にする必要もなく、目を見張る物を得られなくても悲しいと思わず、教会で礼拝する歩みを続ける中で、キリスト者として、手に入れるべき本当の物が示される、そのように聖書は語っています。 

 信じる者には、主イエスの教えが神から出た事が分かると言われます。神の言葉と確信して、迷いや困難があっても、従い続ければ良い事になり、信じる者には、何よりの励ましです。この世に暮らして行きますが、この世の物に、目を奪われたままになることなく、主の守りの中で歩ませて下さい。主イエスの御名によって祈ります。