三崎教会 週報 11/13

2016年  11 月  13 日   週  報 No.46
日本キリスト教団 三崎教会                
終末前主日   主 日 礼 拝    順序 (午前10時30分)  
                 司会 木村諭      奏楽 伊勢田宏子                                
前奏                  
招詞       詩編 109:1〜2    (旧) P.950
讃美歌      26(グロリア、グロリア、グロリア)    一同
主 の 祈 り                           
交読詩編                59       
聖      書   ヨハネによる福音書 6:21〜40 (新)P.175
祈  祷
讃美歌          58(み言葉をください)       一同        
信仰告白
説教   「生きるために必要な命のパンとは」  進宏一伝道師
祈      祷 
聖  餐  式
讃  美  歌       256(まぶねのかたえに) 1〜3    一同
献金  
頌栄           27(父・子・聖霊の)        一同.
祝      祷
後      奏 (礼拝当番) (今週)                     
               (次週)             
◎ 教会学校礼拝(午前9時30分)         
      「サウルを助けたダビデ」 サムエル記上 24、26  
        そらにはてんしの(18) いざうたえ(26)   
          ▲先週の集会    男   女   計                        
            礼   拝   8   28   36
           教会学校     1   1    2  (教師 ・父母8 ) 
   (教会住所)三浦市城山町4−4 
        牧師(代務)生野隆彦   伝道師 進 宏一  
(電話・FAX) 046-881-7923   (e-mail) fgmfg320@ybb.ne.jp

(聖句) わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢える 
 ことがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
                          ヨハネによる福音書 6:35   
(今日の言葉) 飢えることも、渇くこともない、命のパン。キリスト者でも簡単には、信じられません。しかし主イエスを信じる者には、すでに命のパンが与えられています。その分、勇気を持って生きて行けるはずです。
(報告)
○ 役員会報告①牧会・教勢②会計③前月議事録④秋の特別伝道集会 
 第2回 具体的準備 ⑤教会堂塗装工事260万円、複数業者に打診⑥ 
 扁理さん集会、バザー反省⑦ツリー準備、11/23(水、祭日)予定⑧ク 
 リスマス愛餐会:茹玉子入りカレーライス検討
○ 教会創立62周年記念 秋の特別伝道礼拝・集会 第2回 11月27日 
 説教題 「日々新たにされて」 井上喜雄牧師 
コロサイの信徒への手紙 3:1〜4  どうぞ御期待ください。  
○ 11月20日(日)は「収穫感謝日」です。今年も教団より、引退教師の退  
 職年金の財源となる、「謝恩日献金」のお願いが来ました。受付に袋が 
 ありますのでよろしくお願い致します。
○年末大掃除は12月4日(日)に行います。お忙しい時期ですが、御都合
 のつく方はお手伝いお願いいたします。   
待降節 (アドベント) 11月27日(日)〜12月24日(木)
≪クリスマス集会のご案内≫
★  クリスマス主日礼拝 12月25日(日) 午前10:30
クリスマス祝会 愛餐会 C・Sクリスマス会 12月25日(日)礼拝後クリスマス昼食パーティーにご家族一緒に参加下さい。
   ★  クリスマス燭火礼拝 12月24日(木) 夕6:00〜7:00 
                      ―みんなで聞こうクリスマスのお話
 ☆クリスマスは、教会でご一緒に過ごしましょう!
○ 教会創立62周年記念特別献金のお願い:近日中予定の教会堂建物 
 塗装のため、献金をお願いいたします。献金袋は受付にあります。
○ 礼拝堂では、静かにその日の聖書を読み、心を神に向けましょう。
次週礼拝予告  11月 20日(日) 午前10時30分
 説教題 「ほめられる人生」 鈴木伸治牧師  
 聖  書 ミカ書 2:12〜13 マタイによる福音書 25:31〜40
 讃美歌  386(人は畑をよく耕し) 536(み恵みを受けた今は)  



エスは命のパン ヨハネ6:22
 今日の箇所は、何千人もの人々、コンサート会場や、サッカー、野球の競技場に集まる程の人々が、湖の畔で、そんなに多くの食料があるはずないのに、パンと魚を与えられ、満腹した日の、次の日の話です。人々は昨日、満腹しましたが、そろそろ腹も減り、また食べさせたもらいたかったので、再び主イエスの所へやって来ました。その人々に、主イエスは言われます。食べてもまた空腹になる食べ物ではなく、飢えも渇きもしない食べ物を求めなさいと。そんな食べ物が本当にあるのか、というのが、今日の話になります。
 何故そのような、一度与えられれば、飢える事も渇く事もない食べ物を、主イエスが与える事が出来るかと言えば、神が認証した、認印を押したからと言われます。職員の皆さんで言えば、保育士として国に認証されているので、子供の保育が出来る。それと同様に、主イエスは、神に認証されたので、命のパン、食べ物を人々に与えられると言います。
 飢えない、渇かない食べ物の為に働け、と言われた人々は、その食べ物を得る為には何をすればよいかと聞きます。すると主イエスは、神に遣わされた者を信じれば良いと言われます。何か教えの一つを実践する事よりも、まず主イエスを信じろと言われます。
 信じろと言われた人々は、信じる為に、どんな徴、証拠を見せてくれるのか、と言い返します。人々の頭にあったのは、昔エジプトを脱出し荒れ野にいた時の事です。砂漠で、食べる物がなく空腹で堪らず、エジプトにいた頃は、奴隷だったが、腹一杯食べる事が出来た、エジプトにいた方がよっぽど増しだった、脱出するんじゃなかったと不満を言いました。リーダーである、モーセが神に願うと、神は天からマナを降らせ食べさせました。
 砂漠でマナを降らせた時のように、人々は主イエスに、あなたは何をくれるのかと言います。それに対し、主イエスは、単なる食べ物ではなく、人々に命を与える、真の、神のパンを与えると言われました。すると人々は、その命のパンをいつも下さいと言います。
 人々への主イエスの答えは、意外なものでした。イエス自身が、命のパン、命を与えるパンだと言います。イエスの許に来て、この世を生きて行けば、飢えない、渇かないのだと言われます。主イエスは簡単に言われますが、人間にはそれが出来ない、主に従えないから苦しいのです。信仰があると、飢え渇きはないどころか、世間と距離が出来てかえって苦しい。だから多くの人々は、信仰よりも人間関係を優先します。キリスト者でさえ、渇き飢えるからこそ、主イエスの許に来るのです。尤も、人間を造って、この世に生かしている神が、私達に対して、この世は捨てて、只我慢して、希望は次の世に持って生きろ、と言われるはずありません。ですから、今生きるこの世で、飢える事も渇かく事もない命のパンを求めて、キリスト者は主イエスの許に来ています。
 主イエスを信じ、命のパンを与えられた人は、終わりの日に復活すると書かれています。終わりの日というのは、マタイによる福音書24章などに描かれています。終わりの日の事を考えても、あまり意味はないのですが、現代と比較しながら、少し読んでみます。
 まず国々が対立し、戦争が起き、飢饉も起こる。戦争の危険は常にあり、原因は、食糧不足や資源の取り合いだったりします。次に、社会不安によって、救世主を名乗る者、偽物が人々を惑わす。危険な新興宗教は今でも常に現れます。更に自然災害である地震も起きる。地震は常に起きています。世の中は荒んで、人々の愛は冷える。皆が同じだった頃と違って、現在の格差社会では、他人に声を掛けづらいですし、他人の事を考える余裕は無くなっています。最後には、破壊者と呼ばれる者が国を支配する。破壊者が国を支配するというのは、今のところありません。大番狂わせと言うのは先日、米国でありました。その後、太陽は暗くなり、星は空から落ち、天体は揺り動かされ、終わりが来ると書かれます。天体が揺り動かされるというのは、昔から、地球に惑星が衝突する危険が言われ続けています。
 このような、世の終わりを考えても、どうする事も出来ません。それよりも、終わりの日が来る前に、自分の肉体の死がやって来ます。信じる者は、この世に生かされていますから、まず与えられた、この世を生きる事を考えなければなりません。
 人間はパン、食料があれば、生きて行けます。ですから命のパンと言えば、それがあれば生きられる、命が守られるものです。只、食べ物のパンは食べても、時間が経てば、また空腹になります。ところが、主イエスが与える命のパンは、与えられれば、渇かない、飢えないと言われます。
 命のパンである主イエスの許に来れば、飢える事も渇く事もない。そう言われても、キリスト者でさえも、単純に喜べません。主イエスに従えば、生活が楽になる。そんな事はあり得ません。むしろ逆です。ですからこの世的に、世間的に満ち足りる事などありません。しかしそれにも関わらず、飢えない、渇かないと主イエスは言われます。何故でしょうか。主イエスは何を言わんとされるのでしょうか。
 この世では日々、様々な戦いがあります。その戦いは、幸せの裏返しでもあります。家族、友人、人間関係、仕事、お金、健康事情、日々の生活そのもの、これらで大体網羅されているでしょうか。信仰を持たない人にとっては、命のパンとは、何になるでしょうか。食べる物やお金は多い方が良いに決まっていますが、それだけでは生きて行けません。命のパンは、愛情、友情、人の繋がり絆そして仕事のはずです。勿論、お金があれば殆どの事が解決出来る、と言われる方もいて、その方にとっては、正にお金が命のパンでしょう。
 それでは、信じる者はどうでしょうか。キリスト者は、人と繋がりながら生きるように、神に繋がっています。命のパンとして、やはり愛情や、友情、絆があって、お金も最低限は必要です。その上に神様の赦しが加わります。神様の赦しは人間の限界を超える、とキリスト者は信じています。自分ではどうする事も出来なくても、神に引き寄せられ、主イエスの許にやって来た人間は、決して追い返される事はない、失われる事もない、つまり命が守られる、そのように主イエスは言われます。この世的に満ち足り、何の不安もない、そんな事はありません。しかし、私達が本当に必要なもの、本当に欲しがるべきものが教えられ、そして与えられる。与えられた物で、満ち足りる術もまた、教えられる。そのような主イエスの導きの結果として、日々の戦いは必ず乗り切れる。それこそが主イエスが与え下さる、決して飢える事も、渇く事もない命のパンだと思います。
 
 主イエスが言われる、飢える事も、渇く事もない命のパン。キリスト者でさえ、本当だろうかと思います。しかし、私達の不信にも関わらず、主イエスは、私の許に来る者は、決して飢える事がなく、私を信じる者は決して渇く事がない、と言われます。主イエスから命のパンを与えられる事を覚え、勇気を持って、この世を歩んで行く事が出来るようにして下さい。主イエスの御名によって祈ります。