三崎教会 週報 10/30

2016年  10 月  30 日   週  報 No.44
日本キリスト教団 三崎教会                
三位一体後第22主日   主 日 礼 拝    順序 (午前10時30分)  
                 司会 日比野裕子      奏楽 廣瀬牧実                                
前奏                  
招詞       詩編 108:8〜10    (旧) P.950
讃美歌         28 (み栄えあれや)      一同
主 の 祈 り                           
交読詩編                57       
聖      書     ヨハネによる福音書 6:1〜21 (新)P.174
祈  祷
讃美歌        7(ほめたたえよ、力強き主を)    一同        
信仰告白
説教       「奇跡や幽霊を信じるか」  進宏一伝道師
祈      祷 
讃  美  歌         17(聖なる主の美しさと)     一同
献金  
頌栄          29(天のみ民も)         一同.
祝      祷
後      奏  (礼拝当番) (今週)
               (次週)             
◎ 教会学校礼拝(午前9時30分)         
      「ダビデとゴリヤテ」 サムエル記上 17:1〜  
        あかるいひかりを(86) やさしいめが(119)   
          ▲先週の集会    男   女   計                        
            礼   拝   7   24   31
           教会学校     1   1    2  (教師 ・父母8 ) 
   (教会住所)三浦市城山町4−4 
        牧師(代務)生野隆彦   伝道師 進 宏一  
(電話・FAX) 046-881-7923   (e-mail) fgmfg320@ybb.ne.jp


(聖句)
ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれ 
 ども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。
・・イエスが湖の上を歩いて船に近づいて来られるのを見て、彼らは 
 恐れた。                   ヨハネによる福音書 6:9、19

(今日の言葉) 
主イエスは、パン五つと魚二匹しかないのに、五千人に食べ物を与 
 えました。そして湖の上を歩き、弟子たちは幽霊だと思って恐れました。 
 この世を超えた奇跡や幽霊を信じられるでしょうか。主イエスを信じると 
 決めた者には、これらの、この世を超えた力、この世を超えた世界もま 
 た、真実となり、救いとなるはずです。

(報告)
○ バザーのお知らせ:11月3日(木、文化の日) 10:30〜14:00
 今年の会場は、上宮田小羊保育園です。
 食券前売申込受付中です。
○ 小澤扁理兄の、ピアノソロCDアルバム 「雪明り」(小樽の雪明りに 
 感謝を込めて…)をお分けいたします。残り2枚となりました。代金の25 
 00円は、62年記念献金とさせて頂きます。
○ 11月6日は永眠者記念日(聖徒の日」)です。既に天に召された教会 
 員、及び礼拝出席者のご親族(宗教を問わず)を覚え、記念の礼拝をささ 
 げます。 
○ 教会創立62周年記念特別献金のお願い:近日中予定の教会堂建物 
 塗装のため、献金をお願いいたします。献金袋は受付にあります。
○ お祈りください! ①国内外の貧困②神の言葉の力で子供を成長さ
 せること③教会生活をする者が守られること④私たちが次世代に教会
 をつなぐことが出来ること
○ 礼拝堂では、静かにその日の聖書を読み、心を神に向けましょう。
  
次週礼拝予告  11月 6日(日) 午前10時30分
 説教題 「交わりの原点」  佐藤千郎牧師
 聖  書  ローマの信徒への手紙 14:1〜12
 讃美歌 390(主は教会の基となり) 567(ナルドの香油)


5千人の食べ物、湖上歩き ヨハネ6:1〜21

 今日の聖書箇所は、主イエスがなされた2つの奇跡の話です。1つ目は、5つのパンと2匹の魚しかなかったのに、それを食べて5千人の人が満腹したという話、もう一つは、主イエスが湖の上を歩いて来られたので、弟子達は幽霊だと思い込んで仰天し、恐れたという話です。このような、人間の世界ではあり得ない事を奇跡と呼んでいます。信じない人にとっては、単なる作り話に過ぎませんが、主イエスを信じる事に決めた者、キリスト者にとっては、奇跡や幽霊と言った、この世を越えた存在でも、やはり信じるべき真実となります。信じる者にとって、一体これらの事は何を意味し、そこから何を読み取るべきでしょうか。
 5つのパンと2匹の魚だけで5千人を満腹させたり、湖の上を歩いて弟子に近づいて来こられた。主イエスはこれらの行為を、弟子達に、そして大勢の人々の前で、やって見せたと言う事です。人間に見せる為にやられたのです。それは人間に、神の存在を信じさせる為です。神を信じる者は滅びない、結果として救われると言われているからです。
 信じる事が出来ないのが人間の常です。神の立場からすれば、人々を信じさせ、救わなければなりません。人間を信じさせる為に、人間には決して出来ない奇跡を見せた事になります。聖書で、これらの奇跡は、徴という言葉が使われています。数々の奇跡は主イエスが神に遣わされた事、主イエスが神である事の徴、証拠なのです。
 今日の聖書箇所の場面を扱った、映画のDVDでは、主イエスが、いくら割いてもパンや魚は小さくなりませんでした。実際はどの様だったか分かるはずもなく、信じようとする者は、受け入れる他ありません。膨大なの量のパン屑についても、信じない人にとっては、御丁寧な嘘の上塗りであっても、信じる者にとっては当然になります。日本の食パンよりも、乾燥しているであろう大麦のパンなら、なおさら多くの屑が出たはずです。
 もう一つ申し上げれば、パン屑を集めるよう、指示されたのは主イエスです。食べ物は少しも無駄にしてはならない、これもまた大事な教えだという事になります。更に、パンや魚を割き、そして食べる前に、主イエスは感謝の祈りを献げています。人間の食べ物は神に与えられ、ひとつひとつ感謝しなければならない事が教えられます。ここで私が思い出すのは、食事の前に、手を合わせる人がよくいます。特に信仰は持たなくても、神仏を否定はしない方です。
 5千人に食べ物を与えた次は、湖の上を歩く奇跡です。マタイによる福音書、14章で、同じ場面を扱った箇所があり、より詳しく書かれています。弟子達は、湖の向こう岸に行く為、夕方、船を出しました。夜になっても、逆風で波も荒く、暗闇の中、なかなか進みません。そんな苦しんでいる弟子達の前に、主イエスが湖の上を歩いて現れます。弟子達は恐怖のあまり、幽霊だと叫んだと書かれています。そこで主イエスは言われました、安心しなさい、私だ、恐れる事はないと。
 人間は湖の上を歩けるはずがありません。ですから弟子達は幽霊だと思いました。幽霊とは亡くなった方の霊、肉体を持たない姿です。2千年前も今も、幽霊の存在は信じられているのです。ただし、幽霊を、信じる人と、単なる人間の想像の産物、幻覚に過ぎないと言う人、皆さんもどちらかです。先程の、食事の前に手を合わせる方と同じですが、信仰は持たなくても、亡くなった方の霊は信じているという場合が多いと思います。
 幽霊は何故恐ろしいのでしょうか。幽霊は亡き人の姿であって、私達にとっては最も恐ろしい死の世界です。この世の人間を超えた力で、私達も死の世界に引きずり込まれる、そのように思うから恐ろしいのです。
 心霊写真というものがあります。小学校の修学旅行に行った、日本有数の観光地での、そう言った写真を、中学生の頃に見てしまい、恐怖に襲われた事を覚えています。今で言いますと、夜中近く、松輪入口から高山を通って、小網代に抜ける脇道を歩いて帰る事が時々あります。昔その道沿いにあったものや、様々な真しやかな噂話を思い出すと、確かに恐ろしいです。しかし以前とは、少し気持ちが違います。
 インターネット上で、震災の後、亡くなった方の霊だとする動画が沢山あります。それらが本物か偽物なのかは、皆さん一人一人が決める事です。亡き方の霊とされる動画は、恐ろしい話としてだけではなく、亡くなった愛する家族に触れ合う事が出来た、亡き人の霊に出会い、敬意を持って相対したという話です。個人的には、亡き人の霊だとされる映像を見ていると、その方が、今も私はここにいる、と訴えられているような気がしてなりません。
ある年配の女性のお兄さんは内科医で、毎年行っていた、ミャンマーでの医療ボランティアで体調不良を起こされ、現地で召されました。お兄さんが召された後、お兄さん、父親と一緒に住んでいた古家から、妹さんは父親と共に、少し離れたマンションに引っ越されました。引越の数日後、夜中に玄関のベルが鳴ったそうです。その妹さんは真面目な顔で私に言いました。それはお兄さんで、お兄さんは妹さんに、ここに引っ越したのか、随分捜したぞ、と言われたそうです。
 今日の聖書箇所のように、随所で、主イエスが霊のような存在で描かれます。パウロも人間が与えられる、神の霊について再三書いています。そう言った聖書に書かれる霊が、亡き方の霊だと私達が思っているものと、同じなのか、全く別物なのか、分かりません。ですからキリスト者として、必要以上に、亡き方の霊について考えるべきではありません。
 只、主イエスを信じる者にとっては、亡き方の霊だとされるものが、決して不思議なものではなく、違和感なく受け入れられると思います。家族が召された方の悲しみはどうする事も出来ませんが、決して霊の世界は遠い世界ではなく、目には見えないものの、主イエスが弟子達に現れたように、私達のすぐ隣にあるような気がいたします。
 主イエスが、神の証拠、徴として奇跡をなさり、人々に見せたのは、人間に信じさせる為です。主イエスの時代では、奇跡がありました。そして今日では、様々な不思議な現象が、信じる者にとっては、一種の徴と考えることが出来るかもしれません。この世以外にも世界がある。それは決して遠い所ではない。
 この世を生きる私達が、この世の幸せを最大化しようとするのは当然です。しかし、今日の聖書箇所で、主イエスは言われていると思います。この世の事だけを考えてはいけない、奇跡あるいは不思議な現象を思いがら、神の世界を配慮して、この世を生きなければならない。この世を生きている時も、決して次の世の事を忘れてはならない。そのように、主イエスが言われている気がいたします。
  
人間には決して出来ない奇跡によって、主イエスを信じる者が力を得、そして、この世を超えた不思議な出来事によって、信じる者が、信仰を確信出来るようにして下さい。主イエスの御名によって祈ります。