三崎教会 週報 8/14

2016年  8 月  14 日   週  報 No.33
日本キリスト教団 三崎教会                
三位一体後第12主日   主 日 礼 拝    順序 (午前10時30分)  
                 司会 木村諭      奏楽 廣瀬牧実                                     
前奏                  
招詞       詩編 107:20〜22     (旧) P.948
讃美歌     26(グロリア、グロリア、グロリア)   一同
主 の 祈 り                           
交読詩編                47       
聖      書 ヨハネによる福音書 4:31〜38、46〜54(新)P.170
祈  祷
讃美歌       120(主はわがかいぬし.) 1〜4   一同        
信仰告白
説教    「命をつなぐ本当の食べ物とは」  進宏一伝道師
祈      祷 
聖  餐  式
讃  美  歌      152(みめぐみふかき主に) 1〜3   一同
献金  
頌栄          27(父・子・聖霊の)        一同
祝      祷
後      奏  (礼拝当番) (今週)
               (次週)              
◎ 教会学校礼拝(午前9時30分)         
      「金の子牛」 出エジプト記 31:18〜32::35  
         14(うれしいあさよ) 46(やまにはけわしい)   
          ▲先週の集会    男   女   計                        
            礼   拝   5   21   26
           教会学校     1    1   (教師 ・父母7 ) 
   (教会住所)三浦市城山町4−4 
        牧師(代務)生野隆彦   伝道師 進 宏一  
(電話・FAX) 046-881-7923   (e-mail) fgmfg320@ybb.ne.jp

(聖句)  イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある。」と言われた。・・・わたしの食べ物とは、わたしをお遣しになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。
                        ヨハネによる福音書 4:32、34                                               
(今日の言葉) 御心を行うことが食べ物だと、主イエスは言われます。食べ物は水と並んで、私たちの命をつなぐものです。ですから御心を行えば、命が生かされると言われるのです。神に命が生かされるのであれば、肉体に必要な食べ物も、神が当然与えて下さるはずです。
(報告)
○7月31日の納涼会で、朝早い時間から準備して下さった職員、婦人会 
 の方、手作り惣菜、果物、デザートを持寄って下さった方、ありがとうご 
 ざいました。
○役員会報告①牧会・教勢②会計③前月議事録④音楽祭、修養会、納涼
会反省⑤教会堂防水塗装工事の検討⑥8/28、霊南坂教会と交流、コー
ヒー用意。⑦敬老の日寄せ書き
○教団を通した、熊本地震被災者への献金を継続しています。
○在韓被爆者援護のための署名・募金を今年も行います。
○先の戦争における、日本の加害と被害を覚えます。8月6日は広島、9
 日は長崎に原爆が投下された日、15日は終戦の日です。
○東湘南地区信徒大会:9月22日(木、秋分の日)、鎌倉教会(JR鎌倉駅 
 徒歩5分) 午前10時 講演 「慰めの分かち合い」 (東日本大震災時 
 の原発事故後も、すぐ近くの福島県南相馬市の教会に留まり、今も礼拝 
 を守り続けられているお話) 鹿島栄光教会 佐々木茂牧師。 礼拝説 
 教 進伝道師担当 「召された人への思い」。
○お祈りください! ①国内外の格差②神の言葉を使って子供の成長
 の役に立つこと③教会生活をする者が守られること④すぐ行ける、三崎
 の教会であること⑤私たちが次世代に教会をつなぐことが出来ること
○暑さが続きます。礼拝中でも、扇子の使用、水分補給をしましょう。
○体調が悪い時は、説教中でも席をはずして休んでください。
○礼拝堂では、静かにその日の聖書を読み、心を神に向けましょう。
次週礼拝予告  8月 21日(日) 午前10時30分
説教題 「対話する知恵」  大野高志牧師
聖書  ルカによる福音書 2:41〜52 
讃美歌 371(このこどもたちが) 521(とらえたまえわれらを)  


主イエスの食物と役人の息子 ヨハネ4:31

 今日の聖書箇所で、弟子たちが主イエスに、ラビ、先生、食事をどうぞと言いました。弟子たちは、主イエスの為に用意してきた食事を差し出し、勧めました。ところが、主イエスは、私には、あなた方の知らない食べ物があると言われます。弟子たちは、誰かが先に、主イエスに食事を用意してくれたのかと思いました。すると主イエスは、私の食べ物とは、主を遣わした神の御心を行なうことだ、と言われました。
 食べ物があれば私達人間は生きて行けます。命が繋がります。ですから、主イエスが御心を行うことが食べ物と言われれば、御心を行えば生きて行ける、御心を行えば、食べて行ける、飯が食って行けると言うことになります。
 ここで、マタイによる福音書4章4節の、人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる、という主イエスの言葉が思い出されます。空腹を覚えた主イエスに対し、悪魔が、神の子なら目の前に転がっている石を、パンにしたらどうだと言われたのに対し、主が答えました。人の命を維持するのは、パンだけではなく、神の言葉の実践、御心を行う事だと言われています。私達が、肉体の命だけではなく、霊の命も持っていると仮定すると、命を繋いでくれるのは、パンだけではなくなります。御心を行う事も同様に、命を繋ぐ為に本当に必要なもの、すなわち食べ物だとなります。ですから繰返になりますが、御心を行えば、生きて行ける、飯が食って行けると主イエスが言われている事になります。
 そうは言っても、私達はこの世で肉体を持って生きいて、パンが必要です。パンだけで生きるのではない、と言われても無理な話です。それでは、パンだけで生きるのではないと言う言葉は、この世に生きる私達には、全く無縁でしょうか。肉体の命以外、全く信じないなら、そうかも知れません。只、私達がもし、霊の命を少しでも信じるなら、この世にいても、この世の生活だけでなく、神から遣わされた主イエスが言われることも、考えなければなりません。主イエスが言われるには、御心を行うことは、私達にとって食べ物、つまり生きて行く為に必要不可欠なもので、逆に言えば、先程の通り、御心を行っていれば、飯を食って行ける、飯は主イエスが食わせて下さる。主イエスがそう言われるのです。御心を行うことで、本当に飯が食って行けるのか。そんな事を言うのは、綺麗事、偽善者ではないか。これについては最後に触れさせて頂きます。
 主イエスは、食べ物に関して次に、色づいて収穫を待つ畑の譬えを話します。米の生産地を、訪れた事のある方はお分かりになると思います。夏の間は濃い緑の稲穂が、徐々に茶色や黄色に変わって行き、秋にはそれが、日差に当たると本当に見事な金色に見えます。刈入が御心を行う事に譬えられていますから、御心を行う、刈入の結果は、米の収穫という食べ物となります。
 しかも収穫した人は、同じ様に御心を行った人、種を蒔いた人と一緒に喜ぶと書かれています。種を蒔いた人がいるから、今刈り入れているのです。何事においても信仰者は、一人で何かをしているようでも、実は神がそれぞれの行ないを結びつけて下さり、繋いで下さる。御心を行っていれば、その成果は別の人の役に立って実を結んだり、逆に自分ではない他人がやった成果を受け取る事もあると言っています。信仰者は食べ物を共有出来るという事かもしれません。
 次の段落は、役人の息子を癒すという題が付けられています。御心を行う事は食べ物である、御心を行えば食べて行けるという話から一旦離れます。主イエスは、故郷ガリラヤに再び行かれました。主イエスはかつて、ガリラヤに行った時、故郷の人々は、主が神の子、神と同等である事を全く信じようとしませんでした。子供の頃から、知っているその人が実は神の子であった。父親の子供ではなく、母が聖霊によって子を宿した。そう言われても、信じられないのは無理もありません。しかし故郷の人々も、今回は、主イエスエルサレムで行われた奇跡を見ていたので歓迎しました。初めは全く信じなかったのに、奇跡を見た今は歓迎している、そのような事情を踏まえて主イエスは、人間は見なければ決して信じないという厳しい批判をされました。
 人間は確かに見ないと信じないものです。それどころか、見たその時は信じても、時間が経つと忘れます。私自身忘れると思います。ですから主イエスが、見ないで聞いて信じる者は幸いと言われたように、本当に信じる人というのは、見ないでも信じる人だとと思います。
 今回登場する王の役人はどうだったのでしょうか。今、役人の子供は病で死にかかっていました。役人は医者にも見放され、他に方法がなかったからでしょうが、とにかく主イエスに直ぐ来て下さいと頼みました。来て下されば直るとまず信じたのです。主イエスは来て下さいませんでしたが、その代わりに役人に、あなたの息子は生きると言いました。主イエスが来てくれずに、普通はがっかりする所ですが、役人は失望することなく、息子は生きると言う主イエスの言葉を信じ帰途に着きました。その帰り道の途中で、役人は部下に出会い、息子が回復したことを知ります。しかもその時刻が、主イエスが息子は生きると言われた時刻であることを知ります。役人は、主イエスのその言葉だけで信じた訳ですから、その時刻は信じた時でもあります。役人が息子は生きると信じた時に、息子は直ったことになります。主イエスは私達に言われているようです。この役人のように、他に方法がないから信じるしかない、それでも良いから信じてみよと。
役人はとにかく、信じるという御心を行いました。御心を行うことは、私達にとって食べ物であると、今日初めに申し上げました。御心を行なった役人は、食べ物を得ました。その食べ物によって、命が繋がれました。但し、信じたから息子の危篤の病が直った、という御利益の話では決してありません。主イエスを信じれば、病から解放されるなんて事はあり得ません。そうではなく、御心を行う者は、主イエスに命を繋ぐ食べ物が与えられ、この世でどう生きるかが示される、と言われています。役人は家族こぞって主イエスを信じたと書かれています。これが役人に示された道でした。
 最初に戻りますが、御心を行えば、本当に飯を食って行けるのか。世間では、食って行く為には、御心の全く逆をやれと言います。御心を行っていれば、常に土俵際に追い込まれ、崖縁に立たされます。崖下に落ちる、そのぎりぎりの所から、役人が信じたように、私達は主イエスの救いを信じて、生きて行けるのでしょうか。しかしそんな、ぎりぎりの私達を尻目に、主イエスは、何とか飯は食って行ける、飯は食わせてやる、お前はこれを信じるか。主イエスがそう言われていると思います。
 
 日々の現実の中で、信仰から離れそうになってしまう私達を支えて下さい。信仰は決して綺麗事でも、偽善でもない事を私達に分からせて下さい。主イエスの御名によって祈ります。