三崎教会 週報 6/19

2016年  6 月  19 日   週  報 No.25
日本キリスト教団 三崎教会                
三位一体後第4主日   主 日 礼 拝    順序 (午前10時30分)  
                 司会 日比野裕子   奏楽 大川昌美                                    
前奏                  
招詞       詩編 106:39〜42 (旧) P.947
讃美歌          25(父・子・聖霊に)      一同
主 の 祈 り                           
交読詩編                26       
聖      書    ヨハネによる福音書 3:22〜36 (新)P.168
祈  祷
讃美歌       新聖歌325(歌いつつ歩まん)    一同        
信仰告白
説教        「洗礼者の言葉」  進宏一伝道師
祈      祷 
讃  美  歌         405(すべてのひとに)  一同
献金  
頌栄        26(グロリア、グロリア、グロリア)  一同
祝      祷
後      奏  (礼拝当番) (今週)
               (次週)               
◎ 教会学校礼拝(午前9時30分)         
      「エフェソの人たち」 使徒言行録 19:1〜20  
         12(ぱらぱらおちる)93(きょうもみんなに)   
          ▲先週の集会    男   女   計                        
            礼   拝   5   37  42
          教会学校      2   3   5  (教師 ・父母9 ) 
   (教会住所)三浦市城山町4−4 
        牧師(代務)生野隆彦   伝道師 進 宏一  
  (電話・FAX) 046-881-7923   (e-mail) fgmfg320@ybb.ne.jp



(聖句) 天から来られる方は、すべてのものの上におられる。・・その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。
                       ヨハネによる福音書3:31〜34                                                    
(今日の言葉)  
 洗礼者ヨハネは、自分が神に与えられた過酷な役割を、あらかじめ知っていて、その通りに死んで行った人間です。キリスト者でもとても真似は出来ません。そんな特別な人間が、信じる者にとっての神と人間の関係を簡潔に述べています。人間を創造した神は、当然に人間を思いのままに出来ますが、人間の方はそのことを信じようとしません。ただ、信じれば命を与えられると洗礼者ヨハネは言っています。  

(報告)
○聖書通読会を、礼拝後、婦人会総会の前に行います(ヘブライ人への手紙 2:5〜18)。
○婦人会総会を、本日行います。食事をご用意しております。
○先週の墓前礼拝には、8名が参加しました。召された兄弟姉妹が御許にいることを信じ、模範にならえることを祈りました。
○教団を通して、熊本地震の被災者に献金いたします。献金箱は受付にあります。引き続きご協力お願いいたします。
○教会修養会を7月18日(海の日)に行います。午前は聖書の学びの時、午後は楽しく歌い、ピアノ、バイオリンの演奏も予定しています。
○東湘南地区教会音楽祭(7月10日、横須賀学院チャペル)に参加します。
「歌いつつ歩まん」、「シャローム」を歌います。礼拝後、短時間練習します。
ご参加お待ちしております。
○お祈りください! ①国内外の格差②それぞれ違う子供の成長の力
になること ③キリストの言葉によって、教会生活をする者が守られること
④すぐ行ける、三崎の城山にある教会であること⑤次の60年に向け、私
たちが教会をつなぐことが出来ること
○礼拝堂では、静かにその日の聖書を読み、心を神に向けましょう。
次週礼拝予告  6月 26日(日) 午前10時30分
説教題 「人の言葉を取り戻す」  大野高志牧師
聖書  マルコによる福音書 10:46〜52
讃美歌 152(みめぐみふかき主に) 526(苦しみ悩みの) 



洗礼者の言葉 ヨハネ3:22〜
 キリスト者になる時、私達は、主イエスが神であり救い主であると告白し、人前で宣言して、そして洗礼を受けます。洗礼には、全身を水に浸したり、頭に水滴を掛けたりする方法があります。洗礼はユダヤ教の清め、神に礼拝する時に、身の汚れを清めることが、その起源と考えられているようです。日本の神道で言えば、禊ぎです。尤も、洗礼を受けているから清い事などあり得ず、依然として汚れているからこそ、その赦しを得ようと洗礼を受けていると言う事です。不祥事で辞職した政治家が、何も変わらなくても、当選すれば、禊ぎは済んだと言うのと似ているかも知れません。
 今日の箇所では、主イエスと洗礼者ヨハネが、それぞれ別の場所で洗礼を授けています。ユダヤの人々が洗礼者ヨハネに、多くの人達が主イエスの許で洗礼を受けていること告げました。皆が主イエスの方に行ってしまって、あなたの所には来ない。そんな言い方です。すると洗礼者ヨハネは、天からすなわち神から与えられなければ、人間は何も出来ないと言いました。洗礼者ヨハネは、自分が神からある役割を受けていて、その役割とは、主イエスの前に遣わされた者だと言います。メシア、すなわち救い主は主イエスであって、洗礼者ヨハネはメシアではなく、その準備の為に神によって遣わされたと言うのです。そしてその事は、周囲の人々が証ししてくれると言います。何を証しするかと言えば、これから洗礼者ヨハネに起きる過酷な境遇です。
 洗礼者ヨハネに起きる事は、皆さん良く御存知の通りです。洗礼者ヨハネは、ヘロデ王に対し、兄弟の妻ヘロディアとの結婚を律法違反だと批判した為に、ヘロデ王に捕らえられ、牢獄に入れられています。レビ記には、兄弟の妻と結婚してはならない。兄弟を辱める事になるからである、と書かれています18:16。ユダヤの律法は厳しく、兄弟が亡くなる前なら分かりますが、亡くなってしまった後も、その妻と結婚する事を禁じています。兄弟の妻と結婚出来るのは、亡くなった夫が跡継ぎを残さなかった場合に限られていました。
ヘロデ王は兄弟の妻ヘロディアとの結婚を責められ、洗礼者ヨハネを殺そうと思っていましたが、一方で、ヨハネが神から遣わされてる事を感じて、ヨハネを恐れ保護し、ヨハネの教えに当惑しながらも耳を傾けていたと書かれています。只、妻のヘロディアの方はヨハネを必ず殺そうと思っていたに違いありません。
 洗礼者ヨハネが牢屋に捕らえられていたその頃、ちょうどヘロデ王の誕生日の宴会が催され、その席で王の娘が踊りを披露し男性の客を喜ばせ、褒美として何を望むかと問われます。母、洗礼者を憎んでいた、王の妻ヘロディアですが、母に言い含められた娘は、ヨハネの首を盆の上に頂きたいと言い、その一言によって、その通りにされてしまいます。
 その試練について、洗礼者ヨハネは、花嫁を待つ、花婿の介添人に例えています。旧約聖書では、神を花婿とし、信じるユダヤの人々を花嫁とする表現があります。花嫁を迎え喜ぶ花婿の声が聞こえると、介添人は喜びに満たされ、花嫁である人々、花婿である主イエスを見届け、その役割を終えると言います。洗礼者ヨハネは、介添人で、主イエスの前に遣わされた者に過ぎないので、役目を果たせば、衰えなければならない、消えなければならないと言います。その消え方も、少しづつ消えて行くのではなく、先程の過酷な最後を指しています。
 洗礼者ヨハネは主イエスと異なり、人間でしたが、当初からやがて自分に、死がやって来ることを知っていました。人間が死を覚悟することは簡単なことではありません。戦時中に語り伝えられた、国の為に、公共の為に死を覚悟して、そして実際に亡くなって行った多くの人々の話が伝えられています。洗礼者ヨハネの場合は、信仰によってやがて死が訪れることを知り、やはり信仰によって死を受け入れる準備が出来たと言うことです。
 洗礼者ヨハネは聖書に書かれた特別の人間でした。毎回申し上げる通り、信じなければ、只の嘘に過ぎませんが、もし信じるとしたら、信仰は、人間にとって最も恐ろしい死をも、乗り越えさせる事を洗礼者ヨハネは示しています。信仰を持っている私達でも到底出来ない事ですが、死の恐怖を克服出来た人、洗礼者ヨハネがいた事は、キリスト者は覚えていなければならないと思います。
 次の段落は、天から来られる方と言う題です。人間を造った神、創造主を信じるなら、人間を思いのままに出来て当然です。主イエスは十字架で処刑されましたが、復活します。人間が弱い主イエスに勝ったと思いきや、生き返りました。聖書は人間が、神の手のひらの上の乗った、被造物であると書いている事が分かります。
 そして今、主イエスは神の許から人間の世に遣わされ、神のこと、つまり見たこと、聞いたことを人間に証言し伝えます。しかし当時誰も、その証言を受け入れないと記されています。この事は今も全く同じで、私達キリスト者でさえ、主イエスの教えを確信することは出来ていないのです。
 しかし、主イエスの証言を受け入れる者は、神が実在し、人間を創造したことを確認したことになると書かれます。証言を受け入れる者とは、信じるキリスト者のことです。キリスト者でも、先程申しましたように、完全に信じることが出来ている訳ではありませんが、神が本当にいることを、気持の上では、確認していることになります。
 神が遣わした主イエスは、神の言葉、つまり神に創造された人間が、従うべき神の教えを話されます。その時、神が主イエス聖霊を与えるとあります。聖霊とは神そして主イエスとは別人格の、もう一人の神です。私達にも聖霊が与えられると聖書の中に何度も出てきます。聖霊が与えられるとどうなるか、私達にはよく分かりません。しかし主イエスでさえ、神から聖霊を与えられなければ、神の言葉を人間には伝えられないと言っています。聖霊は、主イエスでさえ与えられる必要なもの、私達でも、無くてはならないもの。この事だけは、キリスト者は頭に入れておかねばいけないようです。
 最後に主イエスを受け入れた者には、永遠の命が与えられると、洗礼者ヨハネは言います。人間はいずれ死にますから、永遠の命とは私達の、いつかは終わる命とは全く別物です。永遠と言いますから、死んだ後どうなるか気になりますが、聖書には具体的なことは殆ど書かれていません。死後何らかの続きがあると信じるしかありません。逆に主イエスを信じなかったらどうなるのか。永遠の命が得られず、更に神の怒りを受けると書かれ、丁度、仏教で地獄や三途の川といった死後の裁きと同じです。
 仏教と同じように、信じれば死後何らかの続きがある。信じなければ、裁きとして、死んだ後にもう一回死ぬ事になるかも知れない。神仏を無視する事は出来ませんから、日本人の多くは初詣、お墓参りをし、告別式でお経を聞きます。キリスト教の場合は、形よりもむしろ神の言葉が大切なので、従い切れなくても神の教えを信じているかが問題にされます。どのような信仰を選ぶかは私達に任されています。