三崎教会 週報 5/29

2016年  5 月  29 日   週  報 No.22
日本キリスト教団 三崎教会                
三位一体後第1主日   主 日 礼 拝    順序 (午前10時30分)  
                 司会 新明隆子   奏楽 廣瀬牧実                                    
前奏                  
招詞       詩編 106:28〜31 (旧) P.946
讃美歌         24(たたえよ、主の民)     一同
主 の 祈 り                           
交読詩編                23       
聖      書      ヨハネによる福音書 3:14〜21 (新)P.167
祈  祷
讃美歌          361(この世はみな)      一同        
信仰告白
説教       「独り子を犠牲にした」  進宏一伝道師
祈      祷 
讃  美  歌       新聖歌325(歌いつつ歩まん)   一同
献金  
頌栄           25(父・子・聖霊に)      一同
祝      祷
後      奏  (礼拝当番) (今週)
               (次週)                
◎ 教会学校礼拝(午前9時30分)         
      「アンテオケ教会」 使徒言行録 11:19〜30、13:1〜12  
         42(おことばしんじ) 46(やまにはけわし)   
          ▲先週の集会    男   女   計                        
            礼   拝      8   33   41
           教会学校      3   3    6 (教師 ・父母14) 
   (教会住所)三浦市城山町4−4 
        牧師(代務)生野隆彦   伝道師 進 宏一  
  (電話・FAX) 046-881-7923   (e-mail) fgmfg320@ybb.ne.jp


(聖句) 神は、その独り子をお与えになった・・・。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。・・・御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。・・・光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇を選んだ。それが、もう裁きになっている。                     ヨハネによる福音書 3:16〜19                                                            
(今日の言葉)  仏教でもそうであるように、裁きは次の世のことと私たちは考えています。しかし今日の箇所では、この世で既に、私たちは裁かれていると言います。行いが悪い、つまり、主イエスの教えに従わず、自分のことばかり考えているからです。一方で、この世で既に裁かれているのであれば、逆の場合、主イエスを信じ、闇から光の方に来れば、この世で恵みを受けられることになると思います。光に近づけば、私たちの今までの失敗が明らかにされますが、すべてが益となるように、良い方向に主イエスが変えて下さるのではないでしょうか。 
(報告)
熊本地震の被災者を支援するために、日本キリスト教団を通して献金いたします。献金箱は受付にあります。ご協力お願いいたします。
熊本地震で悲しみの中にある方々を、神様が癒して下さい。日本列島は、火山や地震の活動期に入っていると報道されています。準備べきことを教え下さい。
○信徒の友、6月号が来ております。
○東湘南地区教会音楽祭(7月10日、横須賀学院チャペル)に参加します。
「歌いつつ歩まん」、「シャローム」を歌います。礼拝後、短時間練習します
ので、ご参加お待ちしております。
○東湘南地区総会が本日、15時から鎌倉泉水教会で行われます。
お祈りください! ①国内外の貧困②教会学校の子供の成長が手助け
できること ③キリストの言葉(戒め、励まし)によって、教会生活をする者
が救われること④すぐ行ける、三崎地区の城山にある教会であること⑤
次の60年に向け、私たちが教会をつなぐ役割を果たせること
○礼拝堂では、静かにその日の聖書を読み、心を神に向けましょう。

次週礼拝予告  6月 5日(日) 午前10時30分
説教題 「神の家族・神の住まい」  佐藤千郎牧師
聖書  エフェソの信徒への手紙 2:17〜22
讃美歌  新聖歌325(歌いつつ歩まん) 390(主は教会の基となり) 



 神はその独り子を与えた ヨハネ3:14

 ユダヤの人々は奴隷として使われていた、エジプトの国から、旧約聖書に拠れば、神に導かれ、モーセと共に脱出しました。国を出る時には王、ファラオとの駆引がありました。国を出た後は、連れ戻そうとするエジプト軍との攻防がありました。敵のエジプト軍がいなくなって良かったと思いきや、今度はモーセと民、そして神と民との戦いになってしまいます。人々はエジプトを出た直後には、神の恵みだと大層喜んだのに、その後は何か困難があると、水がなかったり、食物がなかったりすると、直ぐにエジプトで奴隷だった方がまだ益しだった,腹一杯食べられたと、不平不満を並べます。その度毎に神は民の望みを叶え、あるいは、度を超して民が神を忘れた時は、民を裁きました。民は裁かれると神に立ち返りました。神から離れては、神に裁かれ、再び立ち返る。実に人間らしい、私達と少しも変わりないその繰り返しでした。
 神を忘れては、裁かれ、立ち返る、その中の一つの話が、創世記から始まる旧約聖書の、4番目の文章である民数記にあります。ある時、民は荒れ野、砂漠に近い場所を神に導かれ移動している時、本来の陸の道を通る事が出来なかったので、葦の海の道を通りました。陸の道に比べると、ぬかるんだ干潟の道だったと思われます。三崎で言えば、小網代の森や江奈湾の干潟に近いかも知れません。昨年の夏、あるプログラムで、江奈湾を歩きましたが、大人でも長靴を履いた足が抜けない時がありました。子供の中には転んで頭から泥に突っ込んでしまって、泣き出す女の子もいました。
 ユダヤの人々も同じだったはずで、途中で耐えられなくなり、モーセと神に反抗したと書かれています。「何故、私達をエジプトから導き出したのか。こんな所で死なせるつもりか。パンも水もなく、粗末な食べ物では気力も失せてしまう。」人々はそう言いました。民が神の恵みを忘れ、反発した事に怒った神は、毒蛇を送り、多くの者が蛇に噛まれ,命を落としました。人々は大いに恐れ神を思い出し、モーセの元に来て、言いました。私達は神に対し罪を冒しました。神に祈って赦しを請い、私達の罪を取り除いて下さい。
 モーセは人々に頼まれ、民の為に神に赦しを乞います。それに対し神は、モーセに青銅の蛇を作らせ、旗竿の先に掲げさせました。毒蛇に噛まれても、その青銅の蛇を仰ぎ見た者は、命を落とさずに済んだと言います民21:9。
 今日の箇所、3章14節を読んでみますと、主イエスは、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子、主イエス御自身のことですが、人の子も上げられると言われました。モーセが荒れ野で蛇を上げたと言うのは、先程の、神がモーセに青銅の蛇を作らせ、旗竿の先に掲げさせた話です。そして人の子も上げられるというのは、十字架の刑に処せられる事を指しています。
 キリスト者が信じている事によれば、主イエスは肉体は死にましたが復活し、再び弟子達の前に姿を現しました。蛇に噛まれて致命的な傷を負っても、モーセが掲げた青銅の蛇を仰ぎ見た者は死なずに済みました。それと同じ様に、十字架に上げられた主イエスを仰ぎ信じる者は罪が赦され、肉体は死ぬとしても、次に続く永遠の命を得る事になりました。罪が赦される為に、神がモーセに青銅の蛇を与えたように、私達には主イエスが与えられたということになります。
 15節に、神は人間を、人間の住むこの世を愛されたと書かれます。どれほど愛したかと言えば、神の独り子、主イエスを人間の為に犠牲にした位です。人間の為の犠牲というのは、主イエスが十字架上で犠牲になりましたが復活し、その復活した主イエスを信じれば、人間は救われるから、と言う意味です。
 神は自ら創造した人間を愛されましたが、創造した人間がずっと安泰だとは、神は保証して下さいません。仏教で地獄があるように、裁きと滅びの時が来ると言います。ここで、信じる者として疑問があります。神は人間を造っておきながら、愛していると言いながら、何故裁くのでしょうか。教えに反して裁かれるような人間を何故作ったのでしょうか。初めから、御心に適う、従順な人間を作る事は可能だったはずですが、神はそうされず、わざわざ反抗する人間を作られました。理由は何でしょうか。
 想像に過ぎませんが、人間は神に創造され、生かされ、何をしようが勝手ですが、神に対して成長する事が求められていると思います。御心に適う事が出来るようにならなければ、裁かれる。せっかく創造されたのに、滅ぼされてしまいます。
 逆に、御心に適う事が出来るようになれば、裁かれず、滅びる事なく救われ、永遠の命を得ると言われます。御心に適う為に何をすべきかと言えば、何か良い事をしなさいというのではなく、この世に人間となって遣わされた、主イエスを信じる事と言います。18節に、信じる者は裁かれないと書いてある通りです。
 しかし18節に書かれているのは、信じる者は裁かれない、だけではありません。信じない者は既に裁かれているとも書かれています。裁きというのは、仏教と同様、死後の事のはずなのに、この世で生きている時に既に裁かれると言うのです。次の世の事ではなく、この世の問題になってしまいます。
 それでは、この世で既に裁かれているとはどんな事なのでしょうか。人々は行いが悪いので、悪い行いが明るみに出されるのを恐れて、光より闇を好んだ。光の方に来ない。それがもう裁きになっている。そのように書かれています。
 人々は行いが悪い、私達の行いが悪いと言っています。私達は所謂、悪い事をしてしまう時も確かにあります。しかし主イエスが言われる良い悪いの基準は、所謂悪い事をしているいないではなく、自分を可愛がるように他人の面倒を見ているかどうかになります。私達は自分が大好きで、自分の事しかしたくないのを良く分かっていて、その自己中心を隠したいので、光である主イエスより少し暗い闇の方を好みます。また、この世で生きていたいですから、周囲に合わせ、光の方に行けない事もあります。
 結局の所、信じる者は、光より闇を好んで、光の方に来なければ、この世で既に裁かれ、この世の生活に何らかの影響がある、と主イエスが言われる事もまた、本当かと思いながらも、信じなければならない事になります。
 信じなければ既に裁かれている、のであれば、逆に主イエスを信じて光の方に行けば、既にこの世で守られている、と言えると思います。光の方に来て、本当に守られていると思うか、幸福感があるのか、それは信じるその人自身にしか分かりません。
 人間を信じて、健康第一と言いながら、人間関係を最優先にして、この世を渡って行くか。それとも、光である主イエスの方に近づいてこの世を生きるか。光の近くに行けば、誰でも例外なく、泥泥の、生々しい自己中心が明らかになります。たとえそうでも、主イエスが必ず赦して下さり、私達の失敗を良い方向へ、万事益となるようにして下さると信じて光の方に行くか。どちらに行くかは、私達の自由に任されています。

私達は、信仰が弱まる時は、既に裁かれ、信仰をしっかり持って生きている時は、私達は主イエスの守りの中にある。その事を分からせて下さい。過ちでさえ、善に代えて下さる神を信じる事が出来るようにして下さい。主イエスの御名によって祈ります。