三崎教会 週報3/20

2016年  3 月  20 日   週  報 No.12
日本キリスト教団 三崎教会                
受難節第6主日   主 日 礼 拝    順序 (午前10時30分)  
(棕梠の主日)          司会 日比野裕子   奏楽 廣瀬牧実                                   
前奏                  
招詞       詩編 105:37〜40 (旧) P.944
讃美歌       26(グロリア、グロリア、グロリア)   一同
主 の 祈 り                           
交読詩編                12         
聖      書  ヨハネによる福音書16:25〜33,17:13〜19 (新)P.201
祈  祷
讃美歌          529(主よ、わが身を)        一同        
信仰告白
説教       「苦難はつきものなのか」  進宏一伝道師
祈      祷 
讃  美  歌        528(あなたの道を)          一同
献金  
頌栄           27(父・子・聖霊の)        一同
祝      祷
    後      奏  (礼拝当番) (今週) 
                  (次週) 
              ◎ 教会学校礼拝(午前9時30分)         
  「イエス様の十字架.」 マタイによる福音書 27:27〜61    
         40(よあけのほしが) 114(ちいさいのちが)   
          ▲先週の集会    男   女   計                        
            礼   拝       6  27  33   
           教会学校       1   3   4  (教師 ・父母9) 
   (教会住所)三浦市城山町4−4 
        牧師(代務)生野隆彦   伝道師 進 宏一  
  (電話・FAX) 046-881-7923   (e-mail) fgmfg320@ybb.ne.jp


(聖句) 「あなたがたには世で苦難がる。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。 」         ヨハネによる福音書 16:33                                                            
(今日の言葉)    人間の世は神から離れ、主イエスを憎み、主を信じて従おうとする者にも苦難がある、と主は言われます。キリスト者には苦難は避けて通れないようです。ただ、復活してこの世に勝ったと私たちが信じる主イエスが、キリスト者をこの世から取り去るのではなく、この世にいながら守ってくださる、私たちがこの世にいて様々な、人間関係や病そしてお金といった困難を克服させて下さる、と言われます。

(報告)
○  「 復活日」(イースター)礼拝  3月27日(日)
   (題)  「イエスが来て真ん中に立ち」     生野隆彦牧師
ヨハネによる福音書 20:1〜10,19〜23 讃美歌 26、327、333、29                                  
◎ イースターに、洗礼を受ける方は、お申出下さい。
  「あなたたちが、心変わりして主を離れないために」申命記11:16
イースター特別献金のお願い!  献金袋は受付にあります。
イースター礼拝後、軽食を用意します。お時間ある方は、ロールパンにポテトサラダ、玉子、ハム、レタス、チーズ等、各自挟んでお召上り下さい。
○ 2月10日〔水〕(灰の水曜日)より40日間は四旬節(レント)といいキリストが荒野で断食をされた40日間にちなんで定められています。
この期間は主の受難を覚え、克己、修養、懺悔に励み、復活日を迎える
準備をします。棕梠の主日(3月20日)、受難週(20日〜26日)、洗足木
曜日(24日)、受難日(25日)です。
○役員会報告①牧会・教勢②会計③前月議事録④総会4/24準備開始⑤イースター愛餐、自由参加、オープンサンド⑥玉子多めに作る、改めて確認⑦聖書通読会4/17開始⑧7/10音楽祭参加⑨花見愛餐会反省
お祈りください! ①貧困(難民、国内の一部の子供・大人) ②教会学
校の子供の成長 ③キリストの体の教会として、御言葉を伝え続け、信仰
生活をする者が守られること ④すぐに行ける近くの教会であること
○礼拝堂では、静かにその日の聖書を読み、心を神に向けましょう。
 次週礼拝予告  3月 27日(日) 午前10時30分
説教題 「イエスが来て真ん中に立ち」  生野隆彦牧師
聖書   ヨハネによる福音書 20:1〜10,19〜23 
讃美歌  327(すべての民よ、よろこべ) 333(主の復活、ハレルヤ) 



苦難は付きものなのか ヨハネ16:

 主イエスの十字架の金曜日から、信じる者が日曜日に復活したとするまで、僅か48時間程でした。しかし、弟子達が絶望してしまわないように、主イエスは、これから世を去って、父なる神の許に行く、弟子達には主の姿が見えなくなるが、主は再び戻って弟子達に会う、そのように予め告げました。更に、主イエスは今日の箇所、あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている、と語り、弟子達にこの世での苦難の準備をさせました。
 この世の苦難には、信仰の有る無しに関係ない、誰にでもある苦難、そしてキリストを信じる故の苦難、この世との摩擦、軋轢があります。そういった、2種類の苦難の中でも、信じるキリスト者に喜びはあるのでしょうか。
 創造主である神の存在を信じない人間を、造って、かつ生かしているのは、紛れもなく、神御自身だとキリスト者は信じています。ですから、苦難の時、神が人間を放って置かれない事もまたキリスト者は信じます。主イエスが、既に世に勝っていると言われたように、この世の肉体は無くなっても復活されたように、信じる私達もこの世の苦難を克服して、信仰を捨てずに信仰を持ったまま、この世を生きて行けるのではないか。主イエスが弟子達に、十字架とその後の苦難への準備をさせたように、主は今、この世に生きている私達に苦難の中、どのように生きるのか、今日の聖書箇所で告げています。
 今週は受難週で、やはり主イエスが、何故苦しまれたかを考えてしまいます。以前の、犠牲になった神の小羊と同じになってしまいますが、主イエスの苦難を思う時、旧約聖書の犠牲の話は避けられません。犠牲になった小羊は、その血によって人々の罪が赦される、悪が清められると書かれています。血を流す事無しには、赦しはありえないというのが旧約聖書の教えです。只、犠牲になる動物は肉体としては死ぬ訳ですが、それで終わりではありません。血の中に命があると言われます。ですから血は地面に流し、神に返さねばならないのです。また、人間は動物の命である血を、食料として食べてはならないとも書かれています。
 旧約聖書の創世記に、カインとアベルの兄弟殺人の物語があります。弟だけが神に評価され、自分は認められなかった事に怒った兄カインは、弟を殺してしまいます。カインは神に、弟は何処にいるのかと問い正され、私は弟の番人ではないので、弟が何処に行ったか等知らないと答えます。そのカインに対し、神は言います。殺された弟アベルの血が地面の中から神に訴えていると。人間にとっては血を流す事は命の終わり、死を意味しますが、旧約聖書の教えによれば、血の中にある命が神の許に返り、決して終わりではないのです。同じ様に、主イエスも犠牲となり、十字架で死んでしまいましたが、復活したとキリスト者は信じています。私達には、旧約聖書の教えと主イエスの教えは全く違うように感じますが、主イエスの犠牲によって私達の罪が赦された事は、旧約聖書が言っている事と全く変わりがないのです。
 主イエスの十字架の犠牲を思う時、60年以上前のある事故が思い起こされます。1954年の9月26日の夜、青函連絡船、洞爺丸が、函館港のすぐ近くでしたが、台風で転覆し、千人を超える方が亡くなりました。次の朝、人々にある「変な話」が伝えられたと言います。外国人宣教師が女性や子供に自分の救命胴衣を与えたというのです。その救命胴衣で助かった女性達によって、その事が証言されました。その話を人々は変な話と受け止めました。他人の犠牲になる事など、普通では考えられないからです。以前申し上げたかも知れませんが、その事故を取り上げた番組で、日本で最も人気のある芸能人の一人が、いつになく真剣な眼差しで、言いました。他人の為に死ぬなんておいらは絶対嫌だ。そんな事する位なら、死んだ方が増しだと。主イエスの犠牲を思う時、いつも私は自分の正直な気持として、この芸能人の方の言葉を思い出してしまいます。
 あなた方には世で苦難がある、主イエスが言われたのは、一つは予告の為です。十字架の前にした弟子達と同じ様に、主イエスを信じようとする私達に、苦難の準備と覚悟をしなさいと言われるのです。私達にとって苦難と言えば、病、金銭、人間関係が思い浮かびます。信仰の有る無しに全く関係ない苦難、信仰故の苦難、両方ありますが、何であれ、苦難は身に応えます。ですから信じる者に主イエスは準備をさせるのです。
 あなた方には世で苦難がある。主イエスが言われた二つ目の理由は、苦難によって主は信じる者を鍛えられると言われる事です。鍛錬というものは初めは悲しいものですが、乗り越えた日には、思ってもみなかった喜びがある事を、信仰の先輩は御存知だと思います。しかも苦難で潰れそうになれば、主イエスが必ず何とかして下さるはずです。そして金銭については、人間は多ければ多い程嬉しい訳ですが、主イエスは多くは下さいません。只、多くはありませんが、ずっと無くならない物を代わりに下さり、また、不足を感じないで満足する術を教えて下さると言います。
 主イエスが言われる、苦難の三つ目の理由として、私達には苦難が必要、無くてはならないとのだと思います。人間の世は神から離れ、この世の人々は主イエスを憎むと言われ、主を信じる者をも、この世は受け入れません。ですから主イエスの教えに従えば、この世で生きる苦しさを感じ、苦難はつきものになるはずです。ところがキリスト者であっても、この世が面白くて仕方なく、何の苦難も感じない時があります。自分で努力して、自分を成長させて、周りの役に立つ。何処が悪いのかという風にです。しかし、自分を良くする事によって結果的に周囲も良くなると言う、人間の世で理に適う事でも、自分だけでなく、他者の事も考えろと言う、神の教えには合いません。そのような、神から離れてしまっているキリスト者が立ち返るには、苦難しかないと主イエスは言われていると思います。
 主イエスは自ら犠牲になって私達に、神と人間が離れている事を示されました。私達は命を捨てる事などとても出来ませんが、信じる事なら出来ます。主イエスは最後になって、弟子達が主を信じるようになった事を認めながら、弟子達が主を見捨てて逃げ去る事を予告されます。私達も弟子と同じはずで、逃げ出す事があっても信じれば良い、と言われるのです。合わせようとしない者を憎むこの世に、主イエスも、そして主を信じる者も属していないと言われます。かと言って、この世から信じる者を取り去るのではありません。この世にいながら信じる者を守って下さると言われるのです。私達がこの世にいる事を、そしてこの世自体をも決して否定されません。ですから、キリスト者でありながら、周囲の人々と色々な問題を抱えながら、この世の生活を全う出来るのだと思います。
 信じる私達が不完全でも救いはある。何故なら、主イエスが私は既に世に勝っていると言われるからです。既に勝っているという過去形の言葉は、復活を信じる者には、とても良く理解出来ます。既に世に勝って、復活して今も生きておられるその方が、弱くて仕方ない私達の苦難をも、必ず克服させて下さると言っておられます。

 弱さを覚える事は誰にでもあります。時にそれは深刻な場合もあります。どんな時でも主が世に勝たれたように、私達が苦難を克服させて下さい。主イエスの御名によって祈ります。