三崎教会 週報 10/16

2016年  10 月  16 日   週  報 No.42
                     日本キリスト教団 三崎教会                
三位一体後第21主日   主 日 礼 拝    順序 (午前10時30分)  
                 司会 新明隆子      奏楽 大川昌美.                                     
前奏                  
招詞       詩編 108:6〜7    (旧) P.950
讃美歌         25(父・子・聖霊に)        一同
主 の 祈 り                           
交読詩編                56       
聖      書    ヨハネによる福音書 5:31〜47  (新)P.173
祈  祷
讃美歌         430(とびらの外に)        一同        
信仰告白
説教   「人による証しか、神による証しか」  進宏一伝道師
祈      祷 
讃  美  歌         402(いともとうとき)        一同
献金  
頌栄      26(グロリア、グロリア、グロリア)   一同.
祝      祷
後      奏  (礼拝当番) (今週) 
                      (次週)             
◎ 教会学校礼拝(午前9時30分)         
      「サウル王の失敗」 サムエル記上 13:1〜14  
        あかるいひかりを(86) やさしいめが(119)   
          ▲先週の集会    男   女   計                        
            礼   拝          79
           教会学校     2   1   3   (教師 ・父母9 ) 
   (教会住所)三浦市城山町4−4 
        牧師(代務)生野隆彦   伝道師 進 宏一  
(電話・FAX) 046-881-7923   (e-mail) fgmfg320@ybb.ne.jp


(聖句) あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしな 
 い。・・・互いに相手からの誉は受けるのに、唯一の神からの誉は求め 
 ようとしない・・・            ヨハネによる福音書 5:43、44
(今日の言葉) 人間の努力やその結果の業績は素晴らしく、最近ではオ 
 リンピックやノーベル賞受賞は名誉として讃えられます。しかし主イエス 
 は、人間に与えられる名誉には限界があり、神からの名誉こそ受けなけ 
 ればならないものだと言われます。神に与えられる名誉の結果は命で 
 す。命とは死後の命だけではなく、この世での命も守られるのではな 
 いでしょうか。 
(報告)
○ 先週の創立62年記念、秋の特別伝道礼拝には79名、昼食交流会に 
 は、63名が参加しました。職員が会場設営、配膳、片付、婦人会は調理、 
 惣菜・デザートの持寄をして下さいました。ありがとうございました。生野 
 隆彦牧師の「三崎62年の旅をかえりみて」に始まり、小澤扁理兄御家族 
 がピアノ演奏とお話をなさり、60年記念讃美歌の、参加者全員の合唱で 
 幕を閉じました。小澤一雄牧師が創立し今日に至る、三崎教会の歩みが 
 凝縮された、素晴らしいひと時を過ごすことが出来ました。
○ 役員会報告?牧会・教勢?会計?前月議事録?秋の特別伝道集会 
 の具体的準備 ?教会堂塗装工事260万円、実施時期検討?11月27 
 日、井上牧師説教?教会堂大掃除、12月4日。
○ バザーのお知らせ:11月3日(木、文化の日) 10:30〜14:00
 今年の会場は、上宮田小羊保育園です。
 食券前売申込期間は10月3日(月)〜10月11日(火)でした。
○ 教会創立62周年記念特別献金のお願い:近日中予定の教会堂建物・  
 設備修繕のため、献金をお願いいたします。献金袋は受付にあります。
○ お祈りください! ?国内外の貧困?神の言葉の力で子供を成長さ
 せること?教会生活をする者が守られること?私たちが次世代に教会
 をつなぐことが出来ること
○ 礼拝堂では、静かにその日の聖書を読み、心を神に向けましょう。

次週礼拝予告  10月 23日(日) 午前10時30分
 説教題 「矛の辱めを断つ」  大野高志牧師
 聖書  創世記 4:19〜25 マタイによる福音書 18:21〜35


エスについての証し ② ヨハネ5:31

 今日の聖書箇所の始めには、イエスについての証しと書かれています。証しというのは、何々である事は間違いありません、と証明したり保証したり、約束したりする事だと思います。今日は、人間による証しか、神による証しか、という題にさせて頂きました。主イエスについての証し、というのが神による証し、約束の事です。一方で人間同士で、お互いに証し保証をするのが、人間による証しです。その人間によって保証され約束される事と、神によって約束される事と、一体どちらが大切なのかについて、主イエスが話されています。
 まず、主イエスは、自分で自分を証しするならば、それは真実ではないと言われています。誰も自分が可愛く、自身の事について、客観的、公平な判断など出来ません。聖書でも、複数の証人によって初めて、事実が確定する事が随所に書かれています(民数記35、申命記17、Ⅰテモ5)。主イエス御自身にはきちんと証人がいて、自分自身で証ししているの訳ではない。だから言っている事は真実である。そしてその証人とはイエスを遣わした神であると言われています。
 次に主イエスは、ヨハネについて言われます。聖書を信じる者にとっては、ヨハネは神に遣わされた人間です。ヨハネは神の証し、教えを伝えましたが、人々はヨハネを、いずれは消える、燃えて輝く灯火、日本で言えば花火のように、暫くの間、喜び楽しもうとしたと書かれています。人々はヨハネによる神の証しを、ある程度は聞いたものの、自分の事としては決して受け入れようとはしませんでした。それは向こう岸の花火に過ぎませんでした。教養としてのキリスト教と言う言葉があります。素晴らしい美術や音楽、文化や歴史、あるいは道徳としてのキリスト教は受け入れても、自分の人生には、主イエスの教え、証しを、決して取り入れようとはしない事を言います。当時の人々が、ヨハネの神の証しを自分の事とは思わなかったのと、丁度同じです。
 人々はヨハネの証しを受け入れようとしませんでしたが、主イエスの証しはヨハネ以上、ヨハネに勝ると言われます。何故勝るかと言えば、ヨハネと違って、神が奇跡を行う力を主イエスにお与えになったからです。病を癒した、僅かな食べ物を、何千人もの人々に分け与えた、死者を生き返らせた等、人間には絶対出来ない奇跡を、行なった事自体が、神が主イエスを遣わした証しだと言っています。
 尤も、私達は奇跡を直接、見る事ができません。聖書に書かれる、主イエスの奇跡の記事を、本当の出来事として、神の証しとして、信じるかどうかが分かれ道になります。それは丁度、スマホで見られるインターネットの様々な情報を、ある人は本当だと思い、ある人は全く信じない、それと同じかも知れません。個人的には、インターネット情報の半分は狂気であり、半分は真実だと思っています。そのインターネット情報の中に、人間には、死後の世界があるというものがあります。やはり大嘘だと言われるか、一種の神の証しと、信じるかどちらかです。所詮、この世にいる私達は神の顔を見ることも、声を聞くことも出来ません。ですから神の存在や、死後の世界を信じられなくても無理はなく、神の証しを受け入れる事は簡単なことではないことは理解します。私の次回の聖書箇所で、湖の上に突然現れた主イエスを、弟子達が幽霊だと思って恐れる、という場面がありますので、詳しくはその時に話させて頂きます。
 39節に、あなた方は聖書の中に、永遠の命があると考えて聖書を研究している、と書かれています。ユダヤ人は聖書を神の証しとして、一字一句、隅から隅まで研究すれば、死後の命、永遠の命が得られる方法が見つかると信じていました。不老不死の薬を命懸けで探し求めた昔話を、聞いたことがあります。肉体の死を止められるはずが無く、愚かしい話と思ってしまいます。しかし、キリスト者もある意味では同じ事をしていて、永遠の命を求めて、新約聖書を、神の証しとして研究しています。ある意味で不老不死である、永遠の命を求める気持は変わりませんが、人間が作る薬に拠るのではなく、神が証し、保証する不老不死を、聖書の中に求めている事になります。 
 人間によって証しされるもの、人間によって名誉が与えられるものがある一方で、神によって証しされ、保証されるものがあります。主イエスは、私達について、人による誉れは受け入れるのに、神からの誉れは求めない、と言われます。正にその通りで、私達は周囲の人間による名誉、評価が何より嬉しいのです。得られる名誉の為、周りに評価される為に、人間は日夜努力します。その努力の結果は、実際に素晴らしい時があります。最近では、オリンピックやノーベル賞の受賞がありました。地道な研究の結果が応用され、医療が進歩し命が救われたり、あるいは、スポーツの競技を見聞きした者に、感動を与え、それぞれの分野で、自分も頑張ろうと言う、勇気や元気を受け取ったりします。人間による証し、名誉の素晴らしい側面です。
 しかし今日の箇所で、人間の名誉が、神の愛と相容れない時がある、と主イエスは言われています。名誉は人間にとって、往々にして形だけに終わりません。名誉には、生活の保障や金銭が必ず着いてきます。名誉だけであれば、多くの人々は逃げ去ります。そのことを主イエスは、人間には神への愛がない、と表現しています。人間にとっては、やはり神による証しよりも、同じ人間からの名誉、証し、つまり人間による保証、評価の方が嬉しいのです。
 私達人間は、社会の中で生きています。主イエスを信じる者でも、創造主である神が、人間を複数の人の中、社会で生きるように造られたと思っています。人間社会に生きて行く以上、従わなければならない現実があり、人間による証し、人間による評価は大切です。しかし主イエスは、人間社会に生きていても、神を忘れてはならない、神による証しを得ておかねばならないと言われています。何故神を忘れてはいけないかと言えば、命や救いを得る為と書かれます。ここで言う命は、普通は、肉体の死後の命と考えられます。死んだ後の話なら、今、生きるだけで精一杯なので、それ所ではない、どうでも良いと言う方が多数です。只、信じる者にとっては、救いや命は本当に、死後の世界だけの話なのだろうかと考えます。この世でさえ、もし私達が神からの誉れを求め、神による証しを受けようとすれば、神は信じる者を救い、信じる者の命を維持して下さるのではないか。そのように思います。

 この世に生きる私達にとっても、神による証し、神からの誉れが決して遠い所にあるものではない事を、理解出来るようにして下さい。