三崎教会 週報 9/18

2016年  9 月  18 日   週  報 No.38
日本キリスト教団 三崎教会                
三位一体後第17主日   主 日 礼 拝    順序 (午前10時30分)  
                 司会 日比野裕子      奏楽 大川昌美                                     
前奏                  
招詞       詩編 107:39〜41 (旧) P.949
讃美歌         25(父・子・聖霊に)       一同
主 の 祈 り                           
交読詩編                52       
聖      書 ヨハネによる福音書 5:1〜9、24〜29 (新)P.171
祈  祷
讃美歌         458(信仰こそ旅路を)        一同        
信仰告白
説教     「信じる理由、信じる度合」  進宏一伝道師 
祈      祷 
讃  美  歌      522(キリストにはかえられません)  一同
献金  
頌栄     26(グロリア、グロリア、グロリア)   一同
祝      祷
後      奏  (礼拝当番) (今週)
                      (次週)              
◎ 教会学校礼拝(午前9時30分)         
      「ヤコブヨハネ」 ヨハネの手紙 一 4:11  
        35(しゅわれをあいす)129(どんどこどんどこ)   
          ▲先週の集会    男   女   計                        
            礼   拝      6   21  27
           教会学校       1   1   2   (教師 ・父母6 ) 
   (教会住所)三浦市城山町4−4 
        牧師(代務)生野隆彦   伝道師 進 宏一  
(電話・FAX) 046-881-7923   (e-mail) fgmfg320@ybb.ne.jp


(聖句) 
  イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 
 すると、その(病)人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。
  わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠 
 の命を得、また、裁かれることなく、死から命に移っている。                          
                       ヨハネによる福音書 5:8〜9、24
(今日の言葉) 
  神仏を否定する人は多くはありませんが、積極的に信じる人はごくわ 
 ずかです。ただ、何かの理由があって信じる時、人間には想像もできな 
 い、神の世、次の世のありさまを、神は明らかにされます。
  そればかりでなく、この世においても、わたしたちが思いもよらない 
 救いを用意していると言われています。
(報告)
○三崎教会 創立62周年記念 秋の特別伝道礼拝・集会のご案内
 10月9日 午前 10:30 
 「三崎62年の旅をかえりみて」      生野隆彦牧師  
 ピアノ・コンサートとお話          小澤扁理さん 
 昼食交流会 オープンサンド・コーヒー 二葉保育園にて 13時半終了
○教会創立62周年記念特別献金のお願い:教会堂建物・設備の修繕の 
 ため、献金をお願いいたします。献金袋は受付にあります。
○在韓被爆者援護のための署名・募金を、今週まで行います。
○東湘南地区信徒大会:9月22日(木、秋分の日)、鎌倉教会(JR鎌倉駅 
 徒歩5分) 午前10時 講演 「慰めの分かち合い」 (東日本大震災時 
 の原発事故後も、すぐ近くの福島県南相馬市の教会に留まり、今も礼拝 
 を守り続けられている講話) 鹿島栄光教会 佐々木茂牧師。
 (礼拝説教 進伝道師担当 「召された人への思い」)
○お祈りください! ?国内外の貧困?神の言葉の力で子供を成長さ
 せること?教会生活をする者が守られること?私たちが次世代に教会
 をつなぐことが出来ること
○礼拝堂では、静かにその日の聖書を読み、心を神に向けましょう。
次週礼拝予告  9月 25日(日) 午前10時30分
 説教題 「救いの光を見つめつつ」  鈴木伸治牧師
 聖書  ダニエル書 12:1〜4 ヨハネによる福音書 11:1〜16  
 讃美歌 403(聞けよ、愛と真理の)  511(光と闇とが)  



安息日の癒しと主イエスの権威 ヨハネ5:1〜30
 
 エルサレムに、ベトザタという池がありました。池の水が何かの拍子に動いた時に、あるいは天使によって水が動かされた時に、最初に池の中に入れば、病が癒されると信じられていました。ですからそこには重い病や体の不自由な人が多くいました。横たわっていたその中の一人が主イエスに訴えています。水が動く時、誰も私を池の中に入れてくれないので、他の人が先に降りて行きます。だから今だに、38年も私は病気で苦しんでいると。
 何処の国でも、例えば、滅多にない特別の時に何かをすると病が治る、と信じられている事があります。大部分が迷信です。このベトザタの池でも、それまで池の水が動いた時、最初に池に降りた人々は、実際に病が治ったのでしょうか。
 主イエスは先程の人に、病が良くなりたいかと問い掛けられた後、唐突に言われます。起き上がって床を担いで歩きなさい。今まで床に寝た切りだった人に対し、今まで寝ていたその床を担いで歩けとは、これ以上極端な命令はありません。病が癒されたことを示すのに、これ程、象徴的な出来事はありません。今までは動く事さえ出来なかったその人は、床を担いでその池を後にしました。
 いつも申し上げる通り、信じなければ只の作り話です。しかし、信じる決断をした者とっては、世間で伝えられる迷信があり、その中には迷信だと直ぐ分からない物もありますが、その一方で、主イエスによる本当の癒し、救いがあることを、信じなければいけないし、信じて良い事になります。
 主イエスがこの病人を癒したその日は安息日でした。安息日旧約聖書、創世記の始めに、神が天地を創造され、7日目に休息されたことに因んで、神に倣って休息することを求めています出エ20:8。安息日の規定は厳しく、違反者は死刑でした、出エジプト記31:14。
 安息日に、してはいけないものとして、聖書に出て来るのは、外出する事、煮たり焼いたりする事、薪集め、火を炊く事、耕すこと、作物の刈り入れ、荷物運び等があります。これらは、安息日にはしてはいけない、と言うのが神の命令です。私達は、長い目で見たら必ず体を壊すので、きちんと休みなさいとよく言います。この体の休息を、安息日の規定は遙かに越えています。尤も、今日の箇所でもそうですが、主イエス安息日よりも、病の人の癒しを優先されました。ですからキリスト教では、安息日は殆ど配慮されません。但し、安息日の決まりを与えたのは、主イエスの父なる神であり、私達には分からなくても、人間の理解を超えた、何らかの理由が、安息日にはある事は承知しておくべきだと思います。
 次に主イエスは、裁きについて語ります。主イエスの言葉を聞いて、主を遣わした神を信じる者は、永遠の命を得る。あるいは、裁かれることなく、死から命へ移っている。人間には裁きの時が、やがてやって来て、その時に生と死が決まる、と言われています。もちろん、全員、いずれ肉体的には死ぬ訳ですから、ここで言っている生と死は、肉体が死んだ後の話になります。肉体が死んだ後、次の命が永遠に続くのか、裁かれて、第二の死を迎えるのか、主イエスを信じるかどうかが、分かれ道だと聖書は言っています。
 主イエスはまず、この世に生きている者は、肉体の命という意味で生きていますが、次の世の命に関しては、死んでいる者だと言われます。しかし、主イエスの声を聞いて従うと、その者は永遠の命が与えられ、次の世をも生きる事が出来るようになる、と言われます。
 続いて主イエスは、肉体が死んで墓の中にいる者に告げます。肉体が死んだ者が、主イエスの声を聞く時がやがて来る。その時には、全ての人々が墓から出て来て、善を行った者は復活して命を受け、悪を行った者は、復活して裁きを受ける、と言われます。死んだ後に裁きを受けるのは、日本人が慣れ親しんでいる、仏教の地獄の閻魔様と全く同じです。仏教との共通性は、信じる者にとっては、決して偶然ではなく、人間を越えた神仏の世界を垣間見る気がいたします。
 死後の裁きについて、聖書には具体的には書かれていません。裁かれることなく、死から命に移ると書かれているので、裁かれればその結果は死であるという事だけです。ヨハネの黙示録では、裁きは第二の死をもたらすと書かれています。ルカによる福音書の、ラザロと金持ちの話では、裁かれた金持は地獄に行かされ、再び死ぬとはどこにも書かれませんが、苦しみ続ける様子が描かれます。
 日本人で、死んだ後に次がある、と信じている人は少数です。ですから一度きりの人生だから悔いの無いよう精一杯やってみよう、となります。ただし、死後の世界を積極的に信じていなくても、心に刷り込まれている、神道や仏教を完全に否定する気持にはなれないので、神社のお参り、先祖のお墓参りは最低限守っているというのが本音だと思います。
 ですから、信仰とは、神仏とこの世の生活の、どちらを、どの程度優先させるかになります。信仰を持つと言ったら、この世の生活よりも、神仏を優先させるのです。只、どれ程度優先させるか、どれだけ熱心かは人それぞれです。
 70歳を越えなければ、信仰を持つのは無理だと、私に言う方がいます。それ以下ですと、死を意識する事がないからだそうです。その年齢になれば、譬え自分が健康であっても、周囲の同世代の人を見て、死を意識し始めます。それでは、70歳以下で信仰を持っている場合は、何らかの理由があると言う事になります。
 この世の生活より、神仏への思いを何故優先させるのか、何故信仰を持つのでしょうか。一つには、様々な経験から、死という問題を他人事とは思えなくなる場合があります。また、この世で抱える問題は、人間の能力によってはとても解決出来ないと思う場合があります。いずれにせよ、神の裁きを意識せざるを得ない、神に救いを求めるしかない、と思います。しかし、もし神に頼るしかないと言ったら、それは不幸な事なのでしょうか。この世の順調が、唯一絶対の基準なのでしょうか。
 仏教や神道キリスト教の差は別として、この世よりも神仏を優先する時、今日の箇所は、信じる者に対して、人間が想像出来ない、次の世がある事を明らかにします。人間には理由が分かりませんが、何もしてはいけない、安息を命じられる日もあります。神が語られる次の世を忘れることなく、この世を生きよと言われています。そしてこの世では、信じる者には、ベトザタの池の水が動いた時、最初に池に入れば病が治ると言った世間の迷信ではなく、主イエスが寝た切りの人に床を担いで歩けと命じられたような、信じ難い突飛な救いさえあると言われるのです。

 聖書に書かれている、神の世、次の世を忘れる事なく、この世を生きて行かせて下さい。耐えられない時は神様が勇気付け、救いを与えて下さい。主イエスの御名によって祈ります。