三崎教会 週報 5/15

2016年  5 月  15 日   週  報 No.20
日本キリスト教団 三崎教会                
聖霊降臨日   主 日 礼 拝    順序 (午前10時30分)  
                 司会  松本設子  奏楽 大川昌美                                    
前奏                  
招詞       詩編 106:19〜23 (旧) P.946
讃美歌       26(グロリア、グロリア、グロリア)   一同
主 の 祈 り                           
交読詩編                20       
聖      書    ヨハネによる福音書 3:1〜15 (新)P.167
祈  祷
讃美歌        57(ガリラヤの風かおる丘で)     一同        
信仰告白
説教     「霊によって、もう一度生まれる」  進宏一伝道師      
祈祷 
讃  美  歌        新聖歌 325(歌いつつ歩まん)    一同
献金  
頌栄           27(父・子・聖霊の)        一同
祝      祷
    後      奏  (礼拝当番) (今週)
                   (次週)                
◎ 教会学校礼拝(午前9時30分)         
      「聖霊が与えられる」 使徒言行録 2: 〜    
         42(おことばしんじ) 46(やまにはけわし)   
          ▲先週の集会    男   女   計                        
            礼   拝   5   30   35    
           教会学校      1   2    3 (教師 ・父母8) 
   (教会住所)三浦市城山町4−4 
        牧師(代務)生野隆彦   伝道師 進 宏一  
  (電話・FAX) 046-881-7923   (e-mail) fgmfg320@ybb.ne.jp


(聖句) ニコデモは言った。「年をとった者がどうして生まれることができましょう。・・」・・イエスはお答えになった。「・・霊によって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない。」       ヨハネによる福音書 3:4、5                                                             
(今日の言葉) ユダヤ教の指導者、ニコデモは数々の奇跡を見て、主イエスが神のもとから来たことを信じました。しかし、主イエスに霊が与えられれば、人間はもう一度、新たに生まれることが出来ることが、どうしても信じられません。同様に信じるキリスト者も、聖霊の存在を今一つ理解出来ません。そんな私たちに、主イエスは神のもとで見たことを証ししていると言われます。私たちに与えられる聖霊は、単なる主イエスの力ではなく、私たちの体の中にいて下さる、聖霊という名のもう一人の神です。聖霊は私たちに、この世では、必要な能力と行くべき道を与えます。そしていずれ来る次の世では、私たちを吹き渡る風として、永遠の命を約束すると言われます。  

(報告)
○役員会報告①牧会・教勢②会計③前月議事録④熊本地震:教団方針により今後の席上献金を当てる。⑤婦人会総会を6月19日、恒例の修養会を7月18日に、三崎教会を会場に行う。⑥7/10音楽祭曲目選定:歌いつつ歩まん、シャローム久里浜霊園での墓前礼拝:6月19日予定
○礼拝後、聖書通読会を行います。通読と一人一人のお話で、20分予定。
○先週、松本設子姉、伊勢田宏子姉、木村諭兄の役員就任式をいたした。
役員として、次の時代に教会をつなぐ役割を果たせるようお祈り下さい。
熊本地震で悲しみの中にある方々を、神様が癒して下さい。私達は地震と付き合って暮らして行かねばなりません。なすべきことを教え下さい。
○保育園と教会の桜が、見事に剪定されています。
○東湘南地区教会音楽祭(7月10日、横須賀学院チャペル)に参加します。
お祈りください! ①国内外の貧困②教会学校の子供が守られ成長す
ること ③キリストの言葉(戒め、励まし)を伝え続け、教会生活をする者
が救われること④すぐ行ける、三崎地区の城山にある教会であること
○礼拝堂では、静かにその日の聖書を読み、心を神に向けましょう。
次週礼拝予告  5月 22日(日) 午前10時30分
説教題 「幸せな人生」  鈴木伸治牧師
聖書   イザヤ書 40:12〜17 ヨハネによる福音書 14:1〜14
讃美歌 351(聖なる、聖なる) 505(歩ませて下さい) 



ニコデモと私達 ヨハネ
 ニコデモは、主イエスが神であるとは,絶対認めない、ユダヤ教ファリサイ派の有力者で、そのニコデモが昼間ではなく、ある夜、主イエスを訪れます。ニコデモは、主イエスが神の許から来たのでなければ、様々な奇跡を行えるはずがないので、主イエスが神と共にいる事を信じると言いました。ニコデモは、このヨハネによる福音書の終わり近くで、主イエスの十字架の後、亡骸を墓に収めるのを手伝います。主イエスを決して神だとは認めない、ファリサイ派に属しながら、個人的には主イエスのことを信じている。そんなニコデモの複雑な心境が、人目に付かない夜の訪問になったと思われます。
 主イエスとニコデモの遣取りが始まります。まず主イエスが言われます。人間は新たに生まれなければ、神の国を見る事が出来ない。ニコデモが言い返します。年をとった人間が、どうしたら、もう一度生まれる事が出来るでしょうか。
 主イエスが答えます。人間は霊が与えられ、新たに生まれなければ、神の許に行く事は出来ない。主イエスは、今日の箇所の書かれている通り、霊によって新たに生まれた者は、思いのままに吹く風のようだと言われます。人間には、風が何処から来て何処に吹くのか分からないように、霊によって新たに生まれる事も、神がなさる事で、人間には理解出来なくても、驚くには当たらないと主イエスは言われます。
 思いのままに吹く風で、私は皆さん御存知の、千の風になって、を思い出しました。新井満さんが、ある英語の詩を訳しそれに曲を付けました。元の詩は英米では有名で、追悼の時しばしば読まれるとの事です。この元の詩の作者はきっと、このヨハネによる福音書の、今日の箇所からこの詩を作ったと勝手に思っております。
 霊が与えられれば、新たに生まれる事が、ニコデモはどうしても信じられません。それに対し主イエスは、私、主イエスだけが神の許から来て、天上を知っていて、その私が天上の話をしているのだと言われます。信じるかどうかは、ニコデモが決めること、そして私達が決める事でもあります。
 今日はペンテコステ聖霊降臨日です。以前申し上げましたが、ペンテコステは、ペンテが数字の5で、コステは10で、ペンテコステで50日目という意味になります。キリスト者が信じている事を申し上げますと、ユダヤの春の収穫祭、過越の祭のすぐ後、主イエスは十字架に掛かり、二日経過した三日目の朝に復活しました。その後、弟子達と40日余り地上で過ごし、主イエスは神の許に帰られました。この時点で過越祭から40日ちょっと経過しています。そして主イエスが神の許に帰られて1週間位経った、初夏の収穫祭、五旬祭の時、過越の祭から50日経った日に、弟子達に聖霊が降りました。ですから聖霊降臨はペンテコステ、50日目と呼ばれます。 
地上にいた主イエスが、神の許に帰られる少し前、これからいなくなる主イエスに代わって、弟子達を助ける聖霊を送ると予告された事もまた、キリスト者は信じています。その予告通り聖霊が弟子達に降り、使徒言行録の2章に拠れば、弟子達はいきなり、今まで行った事のない、知らない国の言葉で話し始めたとされます。急に外国の言葉を話せるようになった弟子達は、その言葉を使って、その国に伝道に向かいました。ですから、使徒言行録の場面では、聖霊によって、外国語を話す能力が、突然与えられた事になります。
 一方で、今日の箇所、ヨハネによる福音書では、主イエス聖霊が与えられれば、人間は新たに、もう一度生まれる事が出来ると言われます。ニコデモは、もう一度生まれる事が出来ると言われても、年をとった者がそんな事出来るはずないと、どうしても信じる事が出来ませんでした。
 キリストを信じる者であっても、新たに生まれる事や、聖霊の存在については、なかなか理解出来ません。ニコデモと全く同じです。何故聖霊が、神そして主イエスとは別にいるのか。私達に与えられるのは、聖霊ではなく、主イエスの力ではないのか、そしてニコデモが言うように、新たに生まれる事など無理ではないか、そう思ってしまいます。
 パウロは、聖霊について、信じた者が与えられるキリストの霊でありコリ12、霊が与えられた者は、霊に従って歩み、霊に属する事を考え、結果として、死ぬはずの体が生かされると言いますロマ8。肉体はいずれ無くなっても、霊の命は生き残ると言う事です。そのような意味で、聖霊が与えられれば、霊の命で生きるようになるので、新たに生まれたのと同じ事になると思いますロマ8。 
 さらに私達が信じて、聖霊が与えられると、人間の知恵ではない、心に思い浮かびもしない神の知恵が教えられると言いますコリ2。一人一人に賜物を与えて下さるのも霊であり6、信じる者の体は霊が宿って下さる神殿で、もはや自分の体ではないとまで言っています12。ですからパウロに拠れば、聖霊は私達に対して、この世では、人間の限界を超えた能力と守りを与え、肉体が無くなった後にも続く命を与える事になります。 
 ニコデモが主イエスを、人目を避けて夜に訪れた話に戻ります。信じる事が出来ないニコデモは言います。霊によって生まれるなど、そんな事があり得ましょうかと。ニコデモは、主イエスが行った目に見える奇跡によって、主を信じました。しかし目には見えない事、人間が霊によって新たに生まれる事がどうしても信じられません。
 主イエスはニコデモを叱責します。私、主イエスが神の許から来て、知っている事を語り、見てきた事を証ししているのに、ニコデモは目で見たものだけ信じて、主に聞いた話は信じようとしない。神の許から来た主イエスが証ししている事を、そのまま信じてみよと、主はニコデモに言われています。同じ様に主イエスは、私達キリスト者にも、人間には分からなくても、主の証しをそのまま信じてみよと言われていると思います。
 私達が信じる報いは、聖霊が与えられる事です。主イエスが言われるには、聖霊は単なる主イエスの力ではありません。もっと言えば、単なる力と思ってはいけないのです。聖霊は主イエスの分身で、聖霊と言う名の神が、私達の体の中にいて下さると言われます。
 私達には聖霊の事はいくら考えても分かりません。只、私達に聖霊が与えられ、新たに生まれた者となれば、肉体が無くなった後も、私達は思いのままに吹く風のような命をもつと主イエスは言われます。一方で、この世にいる時は、私達の体の中には聖霊がいて下さり、私達の体は聖霊がいる場所なので、神殿とさえ言われ、守られるはずです。私達は聖霊によって自分では到底身に付けられない能力が与えられ、聖霊に従って歩む、より強く言えば、聖霊に行く道が決められる。私達の前には、聖霊によって目に見えないレールが敷かれている事になります。時にはレールは行きたくない方向に向かいます。しかしレールを敷いたのは聖霊ですから、そのレールは試練をも乗り越えるルートになっているはずです。私達は聖霊が敷いて下さった、そのレールの上を確実に進んでいる。そのように思います。

私達は聖霊が与えられる事が、今ひとつ理解出来ませんが、信じてみれば、この世を生きる上で、大きな勇気となる事を私達に分からせて下さい。主イエスの御名によって祈ります。