三崎教会 週報 4/24

2016年  4 月  24 日   週  報 No.17
日本キリスト教団 三崎教会                
復活後第4主日   主 日 礼 拝    順序 (午前10時30分)  
                 司会 栃久保宣子  奏楽 大川昌美                                   
前奏                  
招詞       詩編 106:6〜8 (旧) P.945
讃美歌      26(グロリア、グロリア、グロリア)   一同
主 の 祈 り                           
交読詩編                16       
聖      書   ヨハネによる福音書 2:1〜22  (新)P.165
祈  祷
讃美歌      新聖歌 325(歌いつつ歩まん)     一同        
信仰告白
説教    「私達も実は奇跡を見ている」  進宏一伝道師
祈      祷 
讃  美  歌           461(みめぐみゆたけき)    一同
献金  
頌栄           27(父・子・聖霊の)       一同
祝      祷
    後      奏  (礼拝当番) (今週)
                     (次週) 
              ◎ 教会学校礼拝(午前9時30分)         
      「.悪霊を追い出された男」 ルカによる福音書 8:26〜39    
         123(かなしいときにも) 85(かみさまにかんしゃ)   
          ▲先週の集会    男   女   計                        
            礼   拝      6   24   32    
           教会学校      1   2    3 (教師 ・父母9) 
   (教会住所)三浦市城山町4−4 
        牧師(代務)生野隆彦   伝道師 進 宏一  
  (電話・FAX) 046-881-7923   (e-mail) fgmfg320@ybb.ne.jp


(聖句) ・・ガリラヤのカナで婚礼があって、・・イエスも弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに「ぶどう酒がなくなりました。」と言った。            ヨハネによる福音書 2:1〜3 
(今日の言葉) 母マリアに、ぶどう酒が足りなくなったことを告げられた主イエスは、水がめの水をぶどう酒に変えたと書かれています。これは聖書の時代だけの話ではなく、同じように、今日主を信じる決断をし、日々生きる者に対しても、励まし絶望してしまわないように、主は奇跡を見せて下さっているのではないでしょうか。   

(報告)
○ 本日礼拝後、2016年度 三崎教会 教会総会を行います。
 (議題)  ①事業報告、事業計画の件②会計決算、会計予算の件 ③役員選挙⇒教会員は出席願います。都合ある場合、委任状を御提出下さい。
熊本地震で悲しみの中にある方々を、神様が癒して下さいますように。決して大きくはない地震でも、震源が浅いと震度7となり、これだけの惨事になってしまいました。そして日本のどこでも起こりうることを改めて知らされています。私たちが今回の教訓を生かし、なすべきことが分かるようお導き下さい。
○先週礼拝後、聖書通読会を行い、13名が出席しました。参加者一人一人による様々なお話で、30分程度、主による交わりの時をもつことが出来ました。
○ヒム・プレーヤーが献品されました。従来の製品に比べると、とても軽
く、音質も格段に良くなっていることに驚かされます。様々な場面で活.用
出来そうです。
○東湘南地区教会音楽祭(7月10日、横須賀学院チャペル)に参加します。
お祈りください! ①国内外の貧困②教会学校で救いを得られる子供を
を神様が送って下さること ③キリストの体の教会として、御言葉(戒め、
励まし)を伝え続け、教会生活をする者が守られること ④すぐに行ける、
三崎地区にある教会であること
○礼拝堂では、静かにその日の聖書を読み、心を神に向けましょう。 
次週礼拝予告  5月 1日(日) 午前10時30分
説教題 「生きた水の流れのように」  生野隆彦牧師
聖書   イザヤ書52::13〜15 ヨハネによる福音書 7:37〜39 
讃美歌  56(主よ、いのちのパンをさき) 339(来たれ聖霊よ) 



徴の意味 ヨハネ 2:
 今日の章では、ガリラヤのカナという所で婚礼があり、母マリアがいて、主イエスそして弟子達も婚礼に招かれました。神から遣わされた者としての活動を始め、弟子を伴っていた主イエスですが、家族と共に婚礼に招かれ、地域の人々との交わりもあった事が分かります。
 その婚礼の最中に、葡萄酒が足りなくなってしまいます。母マリアは葡萄酒が無くなりましたと言いましたが、それは召使い達にではなく、主イエスに言いました。私達にとっては、母マリアが葡萄酒が足りなくなった事を、何故主イエスに言ったのか、不思議な、唐突なものを感じてしまいます。しかしマリアが、召使いでなく、主イエスにそう言ったのは、きちんとした理由があったのです。母マリアは主イエスに葡萄酒を作って下さいと頼んだのです。キリスト者でも、マリアは聖霊によって身籠もったことを信じるだけです。マリア以外は知り得ないからです。ところがマリア自身だけは、聖霊によって身籠もった事実を知り得たのです。つまり母マリアだけは、自分が産んだ主イエスが、普通の人間ではない事を既に知っていたのです。聖書の記事に、主イエスが少年時代にエルサレムの祭りに参加した旅の途中で、母マリア、夫ヨセフからはぐれ、二人は心配して何日も歩いた道を戻って探し回った話があります。少年イエスはその時神殿にいて、律法の教えを学んでいて、探し当てたヨセフとマリアが咎めると、父である神の家にいて当然だと言い返します。その時マリアの夫、ヨセフは主イエスが何を言っているのか、全く分からなかったはずですが、マリアは改めて普通の人間の子ではない、神の子である事を確信したのではないでしょうか。これ以外にも書かれてはいなくても、様々な不思議な事、マリアだけには、我が子が神の子であると思い当たる事があったはずです。だからこそ、今、婚礼の最中に葡萄酒が足りなくなったので、主イエスに作ってくれるように頼んだのです。マリアは主イエスが葡萄酒を作れる事を知っていたのです。
 足りなくなった葡萄酒を何とかして作って下さいと言う意味で、無くなりましたと言った母マリアに、主イエスは、私達が驚かされるような答えをします。葡萄酒が無くなったことが私に何の関係があるのか。これはまだ良いとしても、この時主イエスは、母マリアに婦人よと呼び掛けているのです。普通、我が子に婦人よと言われれば、母親はかなりのショックを受けるはずです。しかし先程申しましたように、マリアは既に神の子である事が分かっていたのです。ですから、我が子に婦人よ、と呼び掛けられても何の驚きもなかったでしょう。ですから母マリアは召使い達に、この人、主イエスが何か言いつけたらその通りにして下さいと伝えました。
 その後主イエスは、召使い達に樽を水で満たすように言われ、その水は葡萄酒に変わります。この奇跡は主イエスが行った最初の奇跡と言われ、小説のように奇想天外ですが、キリスト者は他の奇跡と同様に信じている訳です。奇跡は聖書では徴とも呼ばれます。徴とは、神が何でも出来、不可能はない、全能であることの証明という意味でしょう。このような神の徴に何の意味があるのでしょう。何の為に神は奇跡を行い、私達に徴を見せるのでしょうか。
 一つには、奇跡を行うことによって、人間に信じさせる為です。人間は根拠がないと信じないものです。この奇跡によって弟子達も信じたと書かれているのです。弟子達は信じて弟子になった訳ですが、奇跡を見るまでは、水が葡萄酒に変わるまでは、確信は無かったことになります。私達は同じ人間として弟子達の気持が良く分かります。その意味では奇跡には、人間を信じさせる効果がありました。奇跡によって、神が存在する事、そして主イエスが神の許から来た事を信じさせる事に、一旦は成功したのです。一旦はと言いますのは、人間は信じても、暫くすると、疑い始め、そして忘れるからです。
 次の段落、神殿から商人を追い出すと言う題が付けられていますが、ここでは主イエスの荒々しい行動が描かれます。主イエスが神殿で、贖い、罪の償いの事ですが、贖いのための犠牲の動物として売られていた羊や鳩、商人の道具を蹴散らしたとあります。主イエスは人間の力に対して、抵抗することなく、十字架で死んで行かれました。蹴散らす主イエスの姿は、私にとっては大きな違和感があります。
 蹴散らされ追い出された商人達は叫びます。こんな事をするからには、どんな徴を見せるつもりかと。つまり神の子である証拠を見せろという事です。主イエスは答えました。この神殿を壊してみよ、三日で建て直してみせると。信じないユダヤの人々には全く考える価値もない答えでした。しかし信じた者にとっては、主イエスが十字架の後、三日目に復活した時になって、壊した神殿を三日で建て直すと主が言われたのは、御自分の体の事だったと意味が分かりました。そして主イエスの言われた事、三日で神殿を建て直すを思い出し、尚一層信じる結果となりました。ですから、主イエスが言われた事、三日で神殿を建て直すも、聞いていた者が後に信じるようになったので、一種の徴であったと言えます。
 改めて、奇跡を行う事そして徴とは、私達にとって、一体どんな意味があるのでしょうか。人間にとって神を信じることは簡単ではありません。もし聖書を信じるなら、主イエスは葡萄酒以外にも、病人を癒し、何千人に食物を与えると言った、多くの徴を見せ、奇跡をなさり、それによって多くの人々が信じるようになりました。しかし主御自身は信じるようになった人間の心、人間の弱さを御存知でした。確かに私達は一旦は信じます。しかし何かあるとすぐに信仰を捨ててしまう事を神は御存知なのです。信じる私達の為に、人間とは所詮、弱い者である事を、前もって主イエスが言って下さっています。ですから信じる者は、気負う必要はないことになります。人間の弱さの為に神は奇跡を見せ、信じる為の手助けを与えるのです。
 私達は、徴や奇跡を見る事が出来ない、聖書を通して読むほかないと思っています。しかし本当に見る事が出来ないのでしょうか。神は私達に、実は奇跡や徴をお見せになっているのだと思います。長い信仰生活を送って来た方々は、日常生活の中で、これは徴や奇跡ではないかと思う事があるはずです。水が葡萄酒に変わるような際立った奇跡は見る事は出来ないにしても、実は何気ない所で、私達は主に徴や奇跡を見せられているのではないでしょうか。運が良かったとか、自分の能力で成功したとか思っていますが、実は神の示す徴であり、奇跡なのだと思います。神は人間の弱さを知り尽くした上で、徴、奇跡をお見せになります。日々の生活での不安、恐れとの戦いの中、信仰を捨てないで生きる為の道標、励ましをお与えになります。不安、恐れという暗闇の中、神は灯りを必ず点け、24時間、叱咤激励して導いて下さる。その灯りが徴や奇跡だと思います。信じない人にとっては、単なる偶然です。しかし信じる決断をした者にとっては、それは神が見せて下さる奇跡、徴になります。私達は今も奇跡を見ている、そしてこの後も、私達が絶望してしまわないように、その時々に必ず、神は奇跡を見せて下さる。そのように思います。
  
 キリスト者は主イエスが救って下さると信じながら、本当だろうか、それまで耐えられるだろうかと、不安になり、恐れます。主が私達にいつも、そして時に適って徴を見せて下さり、励まし、困難を克服させて下さい。主イエスの御名によって祈ります。