三崎教会 週報 2/21

2016年  2 月  21 日   週  報 No.8
日本キリスト教団 三崎教会                
受難節第2主日   主 日 礼 拝    順序 (午前10時30分)  
                  司会 新明隆子     奏楽 大川昌美                                    
前奏                  
招詞       詩編 105:25〜28 (旧) P.944
讃美歌           24(たたえよ、主の民)     一同
主 の 祈 り                           
交読詩編                9         
聖      書    ヨハネによる福音書 1:35〜51 (新)P.164
祈  祷
讃美歌          7(ほめたたえよ、力強き主を)   一同        
信仰告白
説教     「この世から神への梯子」   進宏一伝道師 
祈  祷                  
讃  美  歌          361(この世はみな)       一同
献金  
頌栄           25(父・子・聖霊に)        一同
祝      祷
    後      奏  (礼拝当番) (今週) 
                   (次週) 
              ◎ 教会学校礼拝(午前9時30分)         
    「生き返ったラザロ」      ヨハネによる福音書 11:1〜46    
      ナザレのおうち() ふんわりけの(139)   
          ▲先週の集会    男   女   計                        
            礼   拝      6   24   30    
           教会学校       1  3   4 (教師 ・父母8) 
   (教会住所)三浦市城山町4−4 
        牧師(代務)生野隆彦   伝道師 進 宏一  
  (電話・FAX) 046-881-7923   (e-mail) fgmfg320@ybb.ne.jp


(聖句) 
  「…天が開け、神の天使たちが人の子の上に上り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」        ヨハネによる福音書 1:51                                                           
(今日の言葉)
  この箇所から、創世記28章12節、ヤコブが夢の中で、神の御使が地上から天に続く階段を、昇り降りするのを見た場面が思い出されます。私たちは、洗礼者ヨハネが始めた洗礼によって聖霊を身に受け、失敗しながら主イエスに従った弟子達を手本にし、主イエスの犠牲で私たちの過ちが赦されました。こうしてヤコブが夢に見たように、信じる私たちは、この世にいる時から、神とつながっていることが出来るのではないでしょうか。
(報告)    
○礼拝後、お花見愛餐会を行います。ぜひご参加ください。
○役員会報告①牧会・教勢②会計③前月議事録④総会4月27日予定⑤3月27日イースター玉子、希望があるので多めに作ること。⑥聖書通読会4月開始
○別紙の60周年記念事業会計報告をご覧ください。献金を感謝します。
○三崎教会と二葉保育園の、創立60周年記念誌をお受け取り下さい。                               
○ 2月10日〔水〕(灰の水曜日)より40日間は四旬節(レント)といいキリ
ストが荒野で断食をされた40日間にちなんで定められています。この期
間は主の受難を覚え、克己、修養、懺悔に励み、復活日(イ-スター3月27
日)を迎える準備をします。棕梠の主日(3月20日)、受難週(20日〜26
日)、洗足木曜日(24日)、受難日(25日)です。
◎ 洗礼のすすめ
 「あなたたちが、心変わりして主を離れないために」申命記11:16
 イースターに、洗礼を受ける方は、お申出下さい。
 お祈りください! ①安全(交通、災害、病い) ②難民とその受入国の
人々 ③救いを求める三崎の人々、そして教会学校に来てくれる子供の
成長の役に立てること ④教会を継ぐ人が与えられること ⑤信仰を守る
場所としての教会であり続け、教会生活をしようとする者が守られること
⑤近くにあり、すぐ行ける教会としての働きが出来ること
 次週礼拝予告  2月 28日(日) 午前10時30分
説教題 「死からの解放」  大野高志牧師
聖書   民数記20:1〜13 ルカによる福音書 9:57〜62 
讃美歌  294(ひとよ、汝が罪の) 522(キリストにはかえられません) 



洗礼者そして弟子 ヨハネ1:19〜
 キリスト者は、主イエスについては、マリアから生まれましたが、神の子と信じています。一方で、洗礼者ヨハネは、主イエスとは違って、人間から生まれた人間の子でした。人間ではありましたが、水で洗礼を授ける為に神に遣わされた、という認識が洗礼者ヨハネ本人にはありました。洗礼は当時のユダヤ教の一部で、入信する、信じる時の儀式として行われた記録がありました。洗礼者ヨハネは、ユダヤ教と同じ様にキリストを信じる時に洗礼を導入しました。その結果、信じる者にとっては、洗礼を受ける事によって、聖霊を受け自分の中に聖霊がいて下さることとなりました。その意味で洗礼者ヨハネは主イエスの先駆となりました。
 29節に、主イエスが神の小羊だと書かれています。皆さんは何度も聞いていると思いますが、繰り返させて頂きます。小羊は、ユダヤ教では、罪を冒した人々の罪を贖う為、普通の言葉で言えば、罪を償う為に犠牲となることがありました。出エジプト記12章で、奴隷であったユダヤの人々を、エジプトから脱出させる為に、神はエジプト中の初子、初めての生まれた子供を、人間も動物も全て撃つと宣言されました。エジプト脱出を前にした夜、ユダヤの人々は、小羊を屠り肉を焼いて食べ、その血を家の玄関の、柱と鴨居に塗るよう、神に命じられました。若い方は、御存知ないでしょうが、鴨居は玄関の上の横に走る木で、下は敷居です。敷居が高いという表現があります。玄関に塗られた、その血の印は、神がユダヤの人々の初子を滅ぼさないで通り過ぎる、過ぎ越す、神によって滅ぼされないで済む印となりました。実際に、玄関の柱と鴨居に小羊の血を塗ったユダヤの人々以外は、国中の人間も家畜も初子が打たれ、エジプトの人々は、ユダヤの人々がそのまま居ると、自分たちも死んでしまうと思い、ファラオ、王は人々を国から急いで去らせました。こうして漸く、ユダヤの人々はエジプトを脱出出来ました。このように、小羊の血を玄関に塗ってユダヤの人々は助かりました。ユダヤの人々の為に犠牲となった小羊、神の小羊が、今日の聖書箇所では、主イエス御自身だと言っています。どのように主イエスが犠牲になったかは皆さんが御存知の通りです。
 ペトロが弟子になったのは、兄弟アンデレが先でした。ペトロは主イエスにケファ、岩と呼ぶことにすると言わました。岩あるいは岩盤は、強固な意思を表しています。ペトロは、主イエスを捨てて逃げ出す失敗もしましたが、最後は命を献げて行きました。マタイによる福音書16:18では、主イエスはペトロに、この岩の上に教会を建てると言われました。ペトロと話していた所が岩の上だったかも知れませんが、ペトロの事を岩と評したとも考えられます。危険な岩の上、崖っぷちに教会が建てられたとしても、この世の力、死の力に対抗出来ると言われています。インターネットやスマホで検索すると、崖や絶壁の上に建てられた教会の画像が沢山出て来ます。このマタイの箇所を読んだキリスト者達が刺激されて、一見危険な崖の上でも、実は神の力によって守られると信じて教会を建てました。スマホの世界だけでなく、ここ城山も、岩盤の上と言われています。天神町から来て坂を下って来ると、丘の上に立つ十字架が見えて来ます。60年前は今程建物が無かったでしょうから、初代小澤一雄牧師も同じ様に岩の上の教会を意識して、ここに教会を建てられたと思います。
 48節以下にあるように、ナタナエルは透視が切っ掛けで弟子になりました。透視とは、見ていないのに感知して内容を把握出来る事で、テレビに登場する超能力者と言われる人は、例えば伏せられたトランプのカードが、何であるか見ないのに分かると言います。フィリポは主イエスが、自分が無花果の木の下にいた事を透視したので、つまり主イエスが見てもいないのに、自分の事を知っていたので、主イエスを信じたのでした。それに対し、主イエスはフィリポにもっと偉大なものを見ると言われました。具体的には、神の使いが人の子、主イエスの上に登り降りするのを見ると言われました。
 主イエスが、神の使いが登り降りすると言われる時、すぐに思い出される話が旧約聖書の中にあります。創世記28章12節にある、ヤコブが夢で見た、地上から天に昇る階段です。神に忠実に従ったアブラハムは、ようやく与えられた子、イサクをも、神に命じられるままに、生け贄に献げようとしました。イサクの記事は余りありませんが、父アブラハムと同様、信仰に忠実であったと思われます。ところがヤコブはイサクの子、アブラハムの孫ですが、祖父や父とは様子が違っています。信仰はありましたが、実利的な人間であり、神の教えには、全てを挙げて忠実であったという訳には行きませんでした。策略を使って双子の兄の、ユダヤ人にとってはとても大切な、長男としての権利を奪ってしまいます。そして長男の権利を奪われた兄に、命を狙われると兄から逃亡し、母リベカの実家に身を寄せます。
 その逃亡の旅の途中、ヤコブは道端で石を枕に眠った時に夢を見ました。地上から階段があり、その先端が天まで届いていました。その階段を神の使いが上り降りして、その傍らに神が立っていたと言います。神はヤコブにその土地を与え、子孫を繁栄させると言われました。それに対しヤコブは、自分を殺そうとしている兄から逃げる途中、食べ物、着るものが与えられ、そして無事を神が守って下さるなら、与えられたものの十分の一を献げると誓いました。私達にとっても、とても分かりやすい、神に御利益を求める、極めて現実的な人間でした。一方で、そんな現金な人間でも、神は認めて下さったという事になります。
 私達が神、創造主を信じ、何時かは神の許に行きたい、あるいはこの世にいる今でも、神と繋がっていたい、ともし思うのであれば、ヤコブの場合と同じ様に、私達の前に梯子や階段があれば、天、神の許に行けるのです。ちょっと神様の許に行って、助けを求めたり、赦しを請うたり、判断を仰いだり出来るのです。私達にとっての神への階段や梯子とは何でしょうか。
 私達にとっての梯子や階段、それは今日これまでお話ししてきた、洗礼者ヨハネであり、弟子達であり、主イエスであると思います。主イエスは人間となり、ユダヤの人々がエジプトから脱出する時に、犠牲になった小羊のようになりました。その犠牲で私達の、24時間、何回でも繰り返してしまう罪が赦されました。その結果、私達と神との間に梯子が渡され、私達は神に受け入れられました。洗礼者ヨハネは洗礼を導入し、私達はその洗礼によって、自分の体の中に聖霊を頂く事が出来、神様がいつも自分の中にいて下さると信じる事が出来るようになりました。弟子達は、主イエスに生活を、そして人生を献げ、人間としての失敗を繰り返しながら、主イエスに従い続けました。過ちを冒し続ける様は、今の私達と全く同じです。ですから、たとえ弱くても私達にその気持ちがあれば、この世にいて、主イエスを信じて着いて行く事が出来る。もし信じるなら、この世にいる時から主イエスへ繋がっている、神に辿り着ける梯子や階段が用意されている。聖書にはそのように書かれていると思います。
 
 信じる者は、この世にいる時から、梯子や階段によって、いつも神と繋がっている事が実感出来る様にして下さい。そしてこの世を歩ませて下さい。