三崎教会 週報 2/7
2016年 2 月 7 日 週 報 No.6
日本キリスト教団 三崎教会
受難節前第1主日 主 日 礼 拝 順序 (午前10時30分)
司会 松本設子 奏楽 伊勢田宏子
前奏
招詞 詩編 105:16〜19 (旧) P.943
讃美歌 29(天のみ民も) 一同
主 の 祈 り
交読詩編 7
聖 書 コリントの信徒への手紙一 13:1〜13 (新)P.317
祈 祷
讃美歌 152(みめぐみふかき主に) 一同
信仰告白
説教 「愛が存在と行動の源泉」 佐藤千郎牧師
祈 祷
讃 美 歌 514(美しい天と地の造り主.) 一同
献金
頌栄 24(たたえよ、主の民) 一同
祝 祷
後 奏
(礼拝当番) (今週)
(次週)
◎ 教会学校礼拝(午前9時30分)
「百人隊長の僕」 ルカによる福音書 7:1〜10
ナザレのおうち() ふんわりけのこひつじ(139)
▲先週の集会 男 女 計
礼 拝 5 26 31
教会学校 1 3 4 (教師 ・父母10)
(教会住所)三浦市城山町4−4
牧師(代務)生野隆彦 伝道師 進 宏一
(電話・FAX) 046-881-7923 (e-mail) fgmfg320@ybb.ne.jp
(聖句) 「(愛は)すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」 コリントの信徒への手紙 一 13:7
(今日の言葉) 今日の聖句の主語である「愛」(アガペー)に値する存在は,天地の造り主、全能の神であり、主イエス・キリストです。わたしという一人の人間の存在と行動は、(三位一体の)神の忍耐と信頼と希望とに依拠しています。そして、このことが地上にある、わたしの存在を価値付け、意味づけているのです。
(報告)
○別紙の12月会計報告と60周年記念事業会計報告をご覧ください。献金を感謝いたします。
○お花見を2月21日に予定しております。御都合つく方は、ぜひご参加ください。
○三崎教会と二葉保育園の、創立60周年記念誌をお受け取り下さい。
○本日役員会を行います。
お祈りください! ①安全(交通、災害、病い) ②難民とその受入国の
人々 ③救いを求める三崎の人々、そして教会学校に来てくれる子供の
成長の役に立てること ④教会を継ぐ人が与えられること ⑤信仰を守る
場所としての教会であり続け、教会生活をしようとする者が守られること
⑤近くにあり、すぐ行ける教会としての働きが出来ること
○礼拝堂に入ったら、静かに着席して黙想をし、その日の聖書を読み、こ
ころを神に向けて開始を待ちましょう。
○日毎の糧(2月4日)「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。 ルカによる福音書12:10
私たちは罪を冒し、またやってしまったと、教えに立ち返ろうとします。ただ時には、神は本当にいらっしゃるのか、自分は見捨てられたのではないかと疑い、主から遠く離れてしまいます。今、聖霊を冒涜していないか、赦されないことをしているのではないか、信じる者でも、気を付けなくてはいけません。しかし裏を返せば、苦しくなっても、必ず救い、見離さないから、信仰を決して捨てるなと叱り、励まされているように聞こえます。
次週礼拝予告 2月 14日(日) 午前10時30分
説教題 「正しくない者のために」 生野隆彦牧師
聖書 詩編 34:1〜8 ペトロの手紙 一 3:8〜22
讃美歌 56(主よ、いのちのパンをさき) 403(聞けよ、愛と真理の)
2016年2月7日・三崎教会 受難節前第1主日礼拝
「今朝の礼拝説教の流れ」 佐藤千郎
○「身に付けた知識に於いても、手にした諸々の財産にしても、それらの事柄がもつ豊かさほど、恐ろしいものはありません」 今日の聖句であるコリントの信徒への手紙一13章の最初の段落(1〜3節)から読み取れる、わたしたちへの警告です。
この手紙の13章と言えば、「愛の賛歌」というニックネームが付くほどに美しく、多くの人に親しまれています。声に出して読みたい聖句と言っても過言ではありません。しかし、同時に、13章の言葉ほど、人のうちに隠れている本性を、露わにする言葉は他にそう多くはありません。試しに、4節の「愛」を自分の名前と入れ替えてみると「佐藤千郎」は忍耐強い、となります。わたしはこの言葉に耐えられません。このように、愛は、その素晴らしさが醸し出す澄みきった透明度の深さの故に、人や暮らしの中にひそむ罪や醜さを、正直に映し出す鏡でもあります。
○人の心に感動を生むすばらしい言葉、身に付けた驚くべき広く深い知識、揺るぐことのない確信に満ちた信仰は、それぞれが豊かさ以外の何ものでもありません。喉から手が出るほど手に入れたいものですが、最初の段落で、この豊かな言葉も知識も信仰も「愛がなければ、何の意味ももたず、何の実りも結ばない」と言い切っています。「愛」の無い豊かさが、忍耐を失わせ、情けを後ろへ退かせ、ねたみを生み、自慢を口にし、高慢になり、自分の利益を求める人へと人を変えていくからです。(13章4〜参照)
○「愛」は、エロス(自己愛)とは区別される「アガペー」です。「愛」とは神の憐れみの行為であり、「憐れみ」とは他人・隣人の苦しみにこころ動かされこと、他人・隣人の苦しみを放っておけないことです。確かに、憐れみ=愛のこころは誰にもあります。人は「助ける者」(創世記2章18節)として造られた生き物だからです。
しかし、本来「愛」の人として造られた人間を、むしばみ、罪へと堕としたのがエロスです。潰しても潰して自己増殖するかのようにこころの中に甦り、私たちを罪へと誘うやっかいで悩ましい存在です。しかも、エロス=自己愛は豊かさの中にこそ宿ります。
○エロスに敗れた人は、そのたびに反省し、懺悔し、悔い改めますが、この流れに終止符を打つことは出来ません。それでも、人は憐れみに生きようと頑張ります。それは、このような者を「忍耐をもって受け入れ、信頼し、希望を失わない神」=「愛」が存在し、そのひとを赦し、そのひとの人生を根本から支えているからです。即ち、隣人の苦しみを放っておけないわたしにこそ、失われることのない「愛」が深く関わっているのです。